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旅行記と紀行

菱岡氏と主催者の忘却散人さんが、22日の紀行研究の今後についての国際集会の内容を少しツイートしてくれた。私は都合がつかなくて参加できなかったのだが、残念だなあ。面白そうだった。

とりあえず、こちらで↓ごらん下さいね。

紀行研究の新展開

菱岡氏のスレッド

菱岡氏の本の感想もなるべく急いでまとめますけど、ちょっとひとつふたつ。

地方から地方への紀行が出てくる、という話。私もそれこそ大昔、「町を見に行く」という、何と手書きの論文を発表したことがあって、どっかに活字に直した気もするけど、見つからないのよねー。非常に読みにくくてすみませんが、一応、ごらんください。内容は一応しっかりしてるつもりです(笑)。

都市を描く

あとねえ、これは、私がまちがってるのかもしれないんですが、「紀行」とは何か、「旅日記」とは何か、というような、定義や分類は、今まだこの段階では慎重にやった方がいいんじゃないのかなと。どういうか、こういう定義や作業はすごくしたくなるんですが、どうもあまり実りある成果が出ないような気がするのです。あくまで、その作者個人の意識としてなら、手がかりになるかと思いますが、一般論にはもう少し距離があるのではないかしらん。

紀行って、とてもあいまいなジャンルで、歌集句集地誌案内記日記名所図会奇談集その他もろもろのジャンルとものすごく接近し、境界線が入り乱れています。おどかすわけじゃないけれど、その実態のややこしさと、わけわからなさは想像を絶します(笑)。

菱岡氏が指摘されているように、「日記」と「紀行」についての漠然とした意識のちがいは確かにあるかもしれません。でもそれも例外は多いし、人によってもちがう感じがする。

貝原益軒は書誌的にも内容的にも、明らかに地誌でしかないような著作の多くに、意地かしらんと思うぐらい「紀行」という名をつけています。他に「巡覧記」としているのもある。そしてここには書肆の意図も多分からむはずです。

時代の変化もあるだろうし、実にいろんな要素があります。私は研究を始めた当初、「国書総目録」で「紀行」と分類された本をすべてカードにとって、できるだけ見て行くようにしたのですが、「紀行」という書名を手がかりにコピーをとりよせたら、内容は全然ちがった歌集や記録で、ほぞをかんだことが何十回あったことやら。一方で「旅日記」だのあまり紀行っぽくない作品を文庫や図書館で、ついでにのぞいたら、堂々たる紀行と呼ぶべき文学作品で、ひぇ~とあわててのけぞった体験も数しれず。

遠山景晋の紀行も「未曾有記」シリーズは、書名は「紀行」でも「日記」でもない。けどれっきとした紀行で、多分本人も序文で「紀行」とか書いてなかったっけ。

名所図会も、作者によっては、一部分が突然一人称の紀行風になったりするものがある。要するに、このあたりはもう、何でもありの無法地帯です。実物を見ながら考えて行くしかありません。

実は私に紀行研究をすすめて下さったのは、中村幸彦先生で、そのころ先生は、中世以来の伝統的な和文紀行と異なる、新しい知的で情報満載の新しい江戸時代の紀行を「旅行記」と名づけることを提唱しておられました。先生なりの実感にもとづいたものと思いますし、当時はそれに従って、「旅行記」=新しい近世的紀行という定義を作ろうという、動きや流れが一定、あったと思います。

でもって、私はそれを完全に無視しました(笑)。先生に反旗をひるがえしたとかじゃなく、どうしてもそういう区別がつけられそうになかったからです。そうやって新しいジャンルや定義を作ったら、今日の紀行研究がどうなっていたかわかりません。もしかしたら、新しい視点や発見があったかもしれない。けれど小津久足の、和文紀行と益軒風の地誌的紀行を合体融合させた名作を見るにつけ、そういう定義を作る方法は、私には無理だったと思うのです。

人には得意不得意があるから、このような定義や分類が先行することで、画期的に研究が進むことだってあるかもしれません。だから、やみくもに否定するわけではありません。それこそ、前に私が書いた、「レッテル嫌い」な私の弱点も関係しているかもしれないし。

ただ、限られた作品や作者だけ見て考えたり、あるいは膨大な数の書名のみを分類検討して何らかの法則を発見しようとしたりするのは、よくよく気をつけた方がいいのではないでしょうか。こと紀行に関しては。

まあ、他のジャンルのことをほとんど知りませんし、紀行研究も最近は怠けまくっておりますので、ぜひぜひ、皆さまのご意見や反論、ご教示をお待ちしております。

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カツジ猫