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日付が変わってしまうかしらん。

◇母が去年の暮れに98歳で亡くなってから初めての母の日。なーんとなく、手持無沙汰なので、スーパーでカーネーションの鉢を買って写真の前に置いたりしていたのですが、いやにお天気もいいので、車を飛ばして墓参りに行きました。新緑と陽光の中、快適なドライブでした。この車に母を乗せて、あちこち行ったよなと思いながら、色とりどりのカーネーションを買って、お墓に供えて来ました。ピンク、赤、青、オレンジ、黄色。うぐいすが鳴いて、遠くを走る電車の音が、山の上の墓地まで聞こえ、かなたには海が広がる、快適な中、陽ざしが暑いほどでした。

◇21日にむなかた九条の会で小林多喜二の小説について、勉強会みたいなのをするので、今資料を作っているのですが、多喜二の小説は陽気で暖かくて、読んでいて楽しいです。多喜二の母のセキを描いた、三浦綾子の小説「母」も作者の他の小説の熱っぽさがあまりなくて、おだやかで、かえってそれがいい感じでした。

しかし多喜二が虐殺されてから、日本がずぶずぶ戦争に踏みこみ、やっとそれが終わるまで十数年もかかっているのか。それだけでも何だかゆううつだ。かりに共謀罪が成立して、私が獄死しないまでも、戦争に日本が迷いこんだら終戦までは生きのびられないかもしれないな。

◇私は学生時代、自治会活動をする中で、民青や共産党にも入っていて、大学院に進学するころ、忙しくなって、次第に遠ざかってしまったのだが、今考えても、そう深刻な決意や覚悟をしたわけではなく、「いつでもやめられるんですね」と確認して申込書を書いたぐらいで、感懐というようなものも特になかった。そして別に特別なことでもなく、母への近況報告として、入党したことを手紙に書いてやった。
母と私はだいたいいつも、同じ本を読んであれこれ感想を言い合っていた。高校時代、たとえばファジャーエフの「若き親衛隊」とか、そういうナチスドイツに抵抗運動をして逮捕され、残酷な拷問にあって殺された若者たちの話も読んでいた。若者たちのひとりが近視で、逮捕されるとき、めがねをかけていなかったから、ドイツ兵が来るのがはっきり見えなかったとかいう場面に、母はいたく同情し共感して、「私も近眼だから、あの気分はよくわかるよ」とか言っていた。

それで、まもなく母から来た返事には、「もしもあなたが、あの若者たちのような運命になったときには、私も必ずいっしょに行く。それだけは言っておくよ」と書いてあって、そんな予測などまったくなく、覚悟も何もなかった私は感動するよりなかばあきれて、何という万年文学少女だと思ったし、いや別にそんなこと今言われても、私牢屋に入ったり、拷問されて死刑になったりする気ないから、さしあたりは、と少々びびったのだった。

◇母は最期まで何とか歩けたが、ふだんは車いすを使っていたし、私と普通に会話はしていたが、昼間のことを夜に聞いても「そうだったかね」と、ほとんど覚えていなかった。それでも陽気で楽し気で、ときどき私に「どうね、世の中は変わりはないね」とか聞いてきた。「アベが相変わらずバカでさあ。戦争したがって憲法変えたがってるよ」などと私は話して聞かせていた。

あの時の母の手紙について、母と話したことはない。手紙もどこかにやってしまった。だが、共謀罪が成立するかもしれなくて、私が逮捕だの死刑だのということになる可能性も、まんざらこれからないわけではないと予感するとき、あの時はまったくまともに受けとめなかった母のことばが、現実味を帯びた約束としてよみがえってくる。そして私はかけてもいいが、たとえ半分ぼけていても、車いすで暮らしていても、母はきっと、あの約束を守っただろう。牢獄へでも死刑台へでも、彼女はいっしょに来ただろう。どうやってかはわからないが、何とかして。

そして、あらためて思う。その母は、もういない。

◇今から何が訪れるにせよ、この時代と、この社会に、私はひとりで向かい合うことになるだろう。
淋しさや心細さはないけれど、むしろ母がいない分、どんな苦しみもひとり分我慢すればいいのだという身軽な気楽さも感じるけれど、それでもやはり、痛切に、痛烈に、あらためて思う。どんな弾圧や攻撃の中でも、私のそばに立って戦ってくれる、誰より信頼できる人は、もういなくなったと。
ちょっとあれかな、「風と共に去りぬ」のラストで、メラニーに対してスカーレットが抱く喪失感に近いのかな。

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カツジ猫