日本シリーズ感想(3、これでおしまい)
日本シリーズの、主として阪神ファンの「なぜ負けたのか」という分析が、ネットにいっぱい上がっているので、読んで楽しんでいたが、だんだん、そうか?という疑問というか、もどかしさが芽生えて来た。ファンの方々だけではない、ちゃんとした解説者の方々の分析を読んでも、いや、そういう専門家の意見の方が、より「そうかな?」と感じてしまう。そもそもスポーツにも野球にも別に詳しくもない私が、そんなこと感じるのも図々しすぎると思うのだが、やっぱりどうも、しっくり来ない。
コメント欄でホークスファンらしい方々が、「あんなに阪神有利と分析していた癖に今さら何を言うか。どうせパ・リーグの試合なんてろくに見てもないんだろ」と、専門家の人たちに文句をつけてるのを見ると、それもそうかもしれないと思うが、よくわからない。
つくづく思うのは、これに限らないが、勝てば官軍といおうか、ほんとに評価が変わるもんだということだ。私は地元のせいもあってホークスの情報にはわりと詳しく、それに比べると阪神のことはほとんど知らない。しかし、試合を見ている限り、そんなに両者に差があるようには見えなかった。少なくとも、ファンや批評家の人たちが、「圧倒的な力の差」「ピッチャー陣が強力」「上位はもちろん下位打線がすごい」などと、口をきわめてほめそやすほど、ホークスが盤石のチームとは思えなかった。
「甲子園のあのものすごいので有名な阪神の応援にも、ホークスの選手たちは『何か言ってるなあ』という感じで平気だったし、エラーしても失敗しても動揺しないで、とにかくどんどん攻めてくる。とてもかなわない」みたいな声を聞くと、何だかもう「平家物語」の富士川の合戦の前に、平家の大将維盛から「源氏はどう戦うのか」と聞かれた古強者の実盛が「それはもう、親が討たれても子が討たれても、その死骸を乗り越え乗り越え、戦ってくる。弓も強いし、すべてにおいて、ひたすらただもう、ものすごい」と、語りまくって、平家の戦意を失わせたという場面を思い出してしまった(笑)。
だいたい、たしか柳町選手だったかは、甲子園の応援よりペイペイドームの阪神の応援団の声の方が、屋根のあるせいか反響して、ずっとすごく聞こえたとか言ってたしなあ。
そもそも、それ以前にホークスって何だか最近わけありの選手が移籍して来てて、山川選手の登場の時に起こった大ブーイングとか(近藤選手が笑ってたけど)、上沢投手へのネットその他での攻撃とか、当人も周囲も、そういうのにはけっこう耐性できてたんじゃないの~?って私なんかはつい思う(笑)。
たしかに小久保監督をはじめとした、去年の日本シリーズでの敗北が骨身にしみてた口惜しさから、今回は絶対負けないという意識はチーム全体に感じた。小久保監督は喜瀬正則氏の本などで読む限り、練習の鬼で大変な努力家のようだし、そのような人が決意したら、まず失敗はしないだろうという気もしていた。ただ、そういう決意や覚悟は、ひとつまちがったら悲壮な緊張感になって、選手を萎縮させることだってあるし、熱意が空回りする可能性もあるから、あればいいってもんでもない。
下位打線の充実も投手陣の強固さも、それをめまぐるしく操った監督の采配も、誰もがほめちぎっているが、私にはそれほど実感がともなわない。そのどちらもが、相次ぐ故障者や負傷者の中でやむなく生み出されたものであり、薄氷を踏むような綱渡りの中で作り出されたものという印象しかない。
その背景と土壌には、チーム内での激しいレギュラー争いがあり、それを支える施設やスタッフや近代的な理論がある。その結果、各選手はぎりぎりまで努力し、惜しまずに戦い、栄枯盛衰もまた激しい。
ホークスが日本一になった後で、何冊かの関連する野球雑誌を買って読んでみた。予想もしていたが、これは編集はさぞ苦労しただろうし、十二月に封切られる映画の構成もさぞ難しいことだろうなというのが実感だった。別に悪口ではないのだが、大谷選手と山本選手を大々的にとりあげとけば売れるような簡単な話ではない。投手陣から打線から野手全員から新人中堅ベテラン皆が、めざましい活躍をどこかでしているものだから、誰かに焦点がしぼれない。きっとどの選手のファンも、どの雑誌を見ても記事や写真の数で、欲求不満になるだろうと思えた。あの柳田選手の写真が終わりの方に一枚しかない雑誌もあれば、あれだけチームの苦境を救った今宮選手や中村選手がほとんど登場していない雑誌もあって、これも決して悪口ではないのだが、その苛烈な状況に、心が凍る思いさえした。
それでも、チームの勝利に貢献し携わった選手はまだいい。祝勝会のビールかけの盛り上がりの中で、私はそこに参加していない、かつての中心メンバーの顔を何人も思い出していた。武田投手、又吉投手、高橋礼投手、東浜投手、板東投手。そんなに前のことでもないころに、チームを支えて花形だった彼らは、優勝と前後して、あるいはもっと前に、チームを去って新しい舞台を求めた。
実は今支えとなっている優秀な投手陣を私は、いつそこまで立派になったのかさえ、よく知らない。松本裕樹投手が猫好きなので前から注目していた以外は、いつの間にそこまで皆成長したのだと驚いてしまう。下位打線のメンバーはさすがに牧原選手や川瀬選手などはおなじみだが、野村選手はじめ若手の数名は、まだこれといった個人的印象がない。そんな思い出を作るまで、彼らが生き残っていてくれるかもわからない。
私がたまたま持っている、2021年にホークスの人気選手を描いたイラストを見ると、今残っている選手がほとんどいない。今のメンバーもあとどれだけ活躍できるのだろうか。どの評論家かが言っていたように、多分メジャーリーグもこのようなもののようだし、ホークスのこの方針を私はまちがってはいないと思う。この苛酷な競争には、パワハラや昔の上下関係や根性論などはない。科学的で冷静で、各自を尊重した精神に支えられた、だからこそ厳しい選抜と選別がある。

その中に、従来の古くから伝わる人間関係、メジャーとはまたちがう日本的かもしれないものをどう織り込むのか、それも今後の課題だろう。
そういう点も含めて、正直言って私は今年のこのチームの状況の成功に関して、監督とともに選手会長がどれだけの役割を果たしているのかが、まだよく読めない。周東選手自身が、いろいろ多彩でわかりにくい面を持つ。彼に限ったことではない。川崎宗則選手も松田宣浩選手も、精神を不安定にし、夜中にうわ言を口走るほど、本来の自分の性格をたわめて、チームや仲間を鼓舞し、雰囲気を高めるのに邁進した。人見知りで内向的な人ほど、意識的にそういう自分を作り上げることができるのかもしれない。
日本一を目指さなければならない使命感と義務感。世代交代と重なる故障者の続出。世間の批判を浴びがちな事情を抱えて移籍してくる大物選手。これらすべての調整をはかり、監督の熱意や決意を負担でなく各選手に伝えて一体感を作るために、どれだけの力を彼は費やしたのか。多分誰にもわかるまい。意地の悪い言い方になるが、時期選手会長と比較した時に、それはある程度浮かび上がるのかもしれない。
次の選手会長は周東選手の親友栗原選手になるようだ。栗原選手もまた、明るい好青年なのに、ネットでは「不調になると陰気に落ち込んで雰囲気を悪くする」と、よく批判される。私がテレビの画面で見る限り、そんな風には見えないのだが、熱心なファンにそう思わせる要素は何かあるのかもしれなくて、それをうまく活かせるような、周東選手とはまたちがうタイプの選手会長になってほしいとも思う。
何しろこの二人は、「僕がロッカールームで寝ようとしていると、話しかけてきて邪魔するからうるさい」と別々の時期にまったく同じ文句を相手に向かって言っていて、どっちもそれぞれ、たがいをけなすし、ひとすじなわでは行かない友情を保っているようで、私にはどちらも同じほど、よくわからない(笑)。
ただ、ごく最近のインタビューで周東選手が栗原選手について、「どうなのか、よくわからない」と言っていたのには、いらん世話だが少し安心した。「彼のことならよくわかっている」と思いこんでいるのは、この際ちょっと不安な気がする。
もっとも、またまた余談だが、このインタビューで私が抱腹絶倒したのは、周東選手が「子どもはかわいいけど、最近ことばをいろいろ覚えて生意気。僕が何かまちがえたこと言うとすぐ『違うでしょ、パパ』とか『それ違うでしょ』とか言ってくる。『おまえ、三年しか生きてないだろ』と思いながら『ごめん』と謝ってる」というエピソードで、何がそんなにおかしいのかわからないけれど、何度読んでも吹き出した。「三年しか生きてないくせに」と内心わが子に抵抗しながら、口に出せないでいるのが壮絶におかしい。
以下は、リーグ優勝の時か何かのホークスのシーズンのまとめ。こういう場面だけ見ても、登場人物が多すぎる。