映画「アルゴ」感想(おまけ)。
◇こういうこと書くと、ますますわけがわからなくなるだろうってことは百も承知で書くんだけどさ。
たとえば、電車の中で前の座席に疲れて大変そうな親子連れが座ったとする。お母さんは疲れてるのかすぐ寝ちゃって、子どもは退屈して椅子の背ごしに後の席の私をのぞいて、ちょっかいを出しはじめる。
気持ちに余裕のある時なら笑って相手ぐらいするんだけど、こちらも疲れてて、しかも車中で書かなくちゃならない原稿とかもあって、精神集中しなきゃならないのに、うるさくってしょうがない。
だんだんイライラしはじめて、我慢も限界になってきて、その内子どもは汚れた靴下をかたっぽ脱いで、それで私の頭をはたいたりしはじめる。
どうしようかなと思っていたら、その子が靴下を落っことし、私が開けたままおいておいた、トートバッグの中にそれが入ってしまう。子どもは何だか困っていて、目をさましたお母さんも「靴下はどうしたの?」とか聞いてるけど、子どもは答えられず、私は気づかなかったふりをして、黙ってバッグの口を閉め、そのまま電車を降りてしまう。靴下は多分すぐ、駅のトイレの汚物入れにでも捨てるでしょう。
たとえば、隣りの家に年取ってよぼよぼのおばあさんが一人暮らししてたとする。いろいろご近所とトラブルの多い人なんだけど、私はおおむね親切にしている。
でもおばあさんは、私の家の境界の塀に自分の洗濯ものをいつもいっぱいに干す。やんわりと、うちの犬がくわえて汚すかもしれませんから、ここには干さない方がいいですよとか言っても、おばあさんは、いえもう、そうなっても全然かまいませんから気にしないで放っておいて下さいとか言って全然あらためない。
向かいの森にカラスがときどき来る。私は何となくパンの余りなど庭さきにおいて、カラスがうちに近づくようにした。ある日、おばあさんが亡くなったご主人の形見とかで大事にしていたスカーフをまた塀に干していて、それをカラスがくわえて飛んで行くのが窓から見えたが私は何も言わなかった。その後、おばあさんが半狂乱になってスカーフをさがしていたけど、私も犬もその日庭に出ていないのは近所の皆が知っていたから、私に疑いはかからなかった。
◇きゃあ、どっちもリアルすぎるから、絶対ほんとにあったんだろうと言われそうですが、誓って全部フィクションです(笑)。
ただ、これと同種のことは、たまーにだけど、私にもある。
相手は弱者。私が守らなきゃならない、傷つけたらいけない相手。理由が何であれ、その人たちのすることは耐えなくちゃならない立場に私はいる。障害を持つ同級生とか。難病を抱えた家族とか。
でも、こちらだって、その人たちに頭に来ることはある。現実に被害を受けることもある。でもそれを言ったって、相手も回りも私の文句を認めるはずない。
で、こっちもひそかに腹いせをして相手にうさばらしをする。あるいは実害を実害で返す。それは、とっても我ながらうまく行って、そして多分、それを口にして言って回っても周囲は私を責めないだろうし、「よくやったね、私も頭にきてたのよね」とか共感応援してくれる可能性大。
ほんとにスカッとするでしょう。全然後味は悪くないでしょう。後悔なんか絶対に、かけらもしない。きっと私は。
だけどね、それでも、それはやっぱり恥ずべきことにはちがいない。どんなに自慢したくても、やっぱり自慢しちゃいけないこと。
私はこれでも、天使でありたいと思ってる(笑)。でも、ときどき陰でものすごく悪いことする天使でいたいとも思ってる。そして、そうやって、誰かをおとし入れようが葬ろうが、絶対に良心の呵責になんかかられないし、人に話したりもしない。たーいせつな宝石みたいに、にまにま一人で思い出しては楽しんでます。
それができないと思ったら、最初からやらない。ちょっとでも後悔したら、もう二度と、そういうことはしない。
◇わかるかなあ? わからないだろうなあ(笑)。
「アルゴ」を見てて私はそういう点で、「あー、しまりがない、みっともない」といたたまれなかったのですよね。私が今くどくど書いたような複雑な屈折もなく、すぽーんと浮かれて、自分たちのしたことを天下に公表してるのが。
弱者がいつも正しく気高いなんてことはないから、強者が弱者にひと泡ふかせて踏みにじりたくなることもよくあるし、やってどんなに気分がいいかも私にはわかる。
でも、それは、あくまで隠しとくもんです。それを隠せず恥じ入らず、たれながす強者も、それに共感して喜ぶ弱者も、私はほんとに、ただ気持ちが悪い。ああ、わかるかなあ、わかんないだろうなあ(笑)。