映画「ゼロ・ダーク・サーティ」感想(おまけ)。
◇これもついでに書いとこう。
「ゼロ・ダーク・サーティ」が成功してるのも高い評価を得てるのも、大きな理由のひとつは、これが男性社会でがんばる女性の奮闘記、にもなってることだ。そこに共感する人は女性にもきっと多いだろう。
でも「サッチャー」もそうだったけど、私はこうやって女性が好戦的で戦闘的であるのは別にいいんだけど、それが結局歴史の上で、どう考えてもいかがわしい汚い役割を、ためらう男性たちをさしおいて、やらされているようなのに、ほんとにもう、うすらさむーい気分を抱く。
何でも安倍首相は「レ・ミゼラブルには泣けなかった。サッチャーの方に感動した」とか言ってたようだ。
そりゃ、あの人の政治姿勢で「レ・ミゼラブル」に感動共感して泣いたとか言われたら、私はその精神が分裂してるんじゃないかとマジで多大な不安を抱いたとこだろうから、それはそれでむしろほっとしたぐらいだ。
ただ「サッチャー」に感動したというのは、どーせ、皆に攻撃されて孤立しても戦争をしようとする、あの精神なんだろなあと思うとね。(もしかしたら、「リンカーン」見ても、「反対されても戦争を遂行する決断がリーダーには大事だ」という、そこだけ切り取った教訓を得て、はげまされるんじゃないでしょうね。)「サッチャー」は、そういう風な鑑賞を大いに許すところが、あの映画の何かこういろいろ、あいまいにごまかして、女性の奮闘ものかどうなのか何かとにかくぐちゃぐちゃにしてる当然の結果だよなとも思うわけです。
まったく、メリル・ストリープはあんな映画ではなく、絶対に「プラダ」でオスカー取るべきだったよなあ。まあ、あんなのに出るのが悪いんだけど。
◇とにかく、昔、アメリカ軍で日系の兵士とかが、アメリカ人である証明のためにひときわ必死で戦ったのと似て、女が男と同じにちゃんとやれるのを示すために、好戦的で過激な仕事をさせられてしまうという、その精神構造がわたしゃ何だか、見ていてたまらん。ほんとにもう、やるせないっつうか、やりきれないっつうか。
ひと昔ふた昔前には、映画で女が登場すると、必要もないのに売春婦や遊女だったり(そうでなかった「クイック&デッド」は、ほんとに立派だ)、または、何か話が入り乱れてごちゃごちゃになると、必ず女性が顔をゆがめて、うんうんいきんで赤ん坊を生んで、おぎゃあおぎゃあと産声があがったら、それですべての対立も問題も解決、みたいな図式がいつもお決まりで、死ぬほど同じものばっか見せられて、しんそこ、うんざりしてたもんだが、最近ではそれに代わって、「男もためらう果敢な決断をする女」が、戦争肯定、弾圧肯定の露払いとお先棒の役割させられてるようで、これはこれで、ほんっとに不快だ。
◇世界には、たとえば環境を守ったり平和を守ったりするために、命をかけて働いてる女性が、もっと、きっと山ほどいるだろうに。
わざわざ汚い、問題ある戦争で、男にやらせちゃ抵抗や反発のあるだろうことを、女にやらせて見逃させようという、その精神が醜いのよ。
しかも女性の監督でしょ。私は女人禁制の島を世界文化遺産にしようって旗振ってる女性議員さんも知ってるし、女性だからってことに何の期待もしちゃいないけど、それでもやはり、そのへんは、はっきり言ってほんとに複雑に不快ですね。
◇そう言えば、だいぶ前に、女性のテロリストやIRAの兵士などを取材した女性のルポルタージュ読んだけど、これまたすっごく不愉快だったのは、女性である著者が、彼女たちにまったく感情移入しないで、どこか不幸な欠陥人間みたいな描き方してたこと。これも、取材するゲリラ戦士が男性だったら、こんなことないんだろうなと私は思って読んでいた。何でもう、エリザベス一世でも映画にするとオカルト女になっちゃうし、等身大の人間としての女王や戦士を描けないのかねえ。
あ、「クイーン」はその点わりとよかったかもな。でも、映画とは関係ないんだけど、どっかのネットで、「殺された鹿はダイアナ妃の象徴でしょうか」と書いてる人がいて、私はあまりの見当はずれに、ぶっとんで、のけぞった。あれはどう見ても、女王が守ろうとする古い王室の誇りの象徴でしょうに。いったいぜんたい、どっからどうして、あれがダイアナ妃になるんだよ。映画作るって大変だなあと、しみじみ監督に同情したよ。
とにかく、女がこんな風に使われてること、現実でも映画の中でも。そして、それを承知で、男以上の汚い仕事や決定をしてる、しなくちゃならない女性が、きっと現に大勢いるんだろうこと。それは女性が男性社会に入っていくために、必要なこととされていること。そのどれもが、私には、ものすごく、やりきれません。「ゼロ・ダーク・シティ」は、そういう点でも私には、すっごく不快な映画です。