映画「アルゴ」感想(2、これでおしまい)。
◇私はベトナム戦争反対の運動にもかかわった世代で、だからアメリカのベトナムものの映画の変遷も、わりと肌身に感じてきたのだけど、最初は「グリーン・ベレー」とか、悪の権化の共産主義と戦うあまりに嘘っぱちな映画があって、それから「地獄の黙示録」みたいな、やたらと重い難解なのがあって、「プラトーン」が初めて地に足のついた、人間の息吹きを感じる、しかもけっこうエンターテインメント(笑)なベトナムものを作ったんでした。傑作なんだけど、傑作という名で呼ぶには、あまりにさりげなく楚々とした(笑)佳作って感じなんですよ、私の感じでは、「プラトーン」は。
その後の同じ監督のベトナム三部作とやらは、あまりいただけなかったし、ちゃんと見てるわけじゃないけど、やはりストーン監督の仕事は私はありがたかったですね。今度衛星放送で何かアメリカの歴史の特集をやるらしいけど、見ようかな。
「プラトーン」で星空の下、古参兵のエリアスが新兵に「おれたちはまちがった戦争をしてる」と淡々と語るのを聞いたときの、しみいるような感動は今も残っています。もうちょっと甘くて俗っぽいけど、「ミュンヘン」にも同様の、人間が人間であることを示すことばが確かに存在した。
◇でも、今はもうとっくに消えてどこにも残ってないだろうけど、「プラトーン」と同時期にも以後にも、アメリカを被害者として描くベトナム戦争映画は、けっこう作られてたんですよ。私まじめにちゃんとほとんど全部見てたけど、皆忘れたな、中身は(笑)。
覚えてるのは、そのほとんどはベトナムの捕虜収容所ものだったこと。そこで、洗脳やら虐待やら拷問やら受ける米兵たちが、抵抗したり脱走したりする話。
どれだけそれが事実に基づいてたかは知りません。仮に基づいてたにしろ、あれだけナパーム弾や枯葉剤やら普通の人の上にふりまいて、ソンミ事件に代表される残虐の限りを尽くしておいて、捕虜収容所の扱いについて抗議しても、あんまり説得力はないなと思って見てましたけど、まあそれなりに、そういう抗議にも意味はあったかもしれません。そりゃあれですよ、連続殺人犯でも大量虐殺者でも、刑務所で粗末に扱われていいってことは決してありませんもの。
◇とにかく、そういう映画をいくつも見てるうちに、つくづく感じたのは、「ああ、アメリカは正義の戦いや弱者の抵抗の映画を作りたくても、ことベトナム戦争になると捕虜収容所ものしかできないんだな」ってことでした。全体の戦いや状況は、明らかに正義じゃないし弱者でもないから、そこに目をつぶって、そういう役割にちょっとでもなれる場所を見つけたら夢中でそこに没頭して、抵抗する被害者を演じてストレス解消するんだよなあって。
そういうのは皆、ちゃちな大して面白くもない映画でした。でも「アルゴ」を見てると、いかに豪華でよくできていても、題材となった事件が痛快でも、結局はああいう映画と同じにしか私には見えない。
◇今、アメリカが、世界でそして中東で果たしている役割を考えたとき、してきたことを考えたとき、あの作戦がいかに壮大で痛快で楽しい思い出で、救出する対象も、救出した状況も、まったく絶対誰にも後ろ指をさされない、大手をふって公開できるものであったとしても、あえて言うけど、それはやっぱり、公開されて恥じ入るべきことなのですよ。こそっとにんまりして、身内でくすくす笑いあって、そのまま闇に葬るか、そっとしておくことなのですよ。
それをもう、あれだけ、がちゃがちゃ大喜びして、単純明快な冒険活劇にしてるのが、私はもう、ひとごとながら、恥ずかしくってしかたがない。ほとんど在特会のプラカードと同じぐらいに恥ずかしい。
作りたくなる気持ちはわかるんですよ。多分、いやっていうほどに。そして、変に深刻に描いてしまうと、「じゃおまえたちのしたことは」とか言われてしまってボロが出るから、もうやるからには、私に言わせりゃ半狂乱のお祭り騒ぎの荒唐無稽な大芝居にしてしまうしかないっていうのもわかるのよ。電話のそばに人がいないの、飛行機が飛ぶ直前に面が割れそうになるの、何もかもが、嘘だろうって思うぐらいの、極彩色のドタバタで。
◇作っちまったんだろうなあ、と見てて何度も思いました。賞をやっちまったんだろうなあ、とため息をつくしかありませんでした。それにしても、すべてが何という単純さ、わかりやすさ。何も伝わって来ないのは、まるでアフレックの顔を見てるようでした。
私はアメリカの健康さ、良心を信じてますけどね、今回のこの映画と受賞は、ほんとにただもう、やっちまったなあ、の一言しかありません(「おまけ」もあります)。