映画「ゲド戦記」感想(その5)
くりかえしますが、私は最初のあたりから、ああ、これは何も説明する気のない映画だなと思ったのですが、それを私にすぐ気づかせたという点でも、この映画は相当なもんだと思います(ほめてるんだってばさ)。
とにかく異様なことが、起こりつづけているわけです。どう見ても立派な人らしい王さまが突然殺され、殺したのはどうやら王子らしく、何やら意味ありげで立派な人か悪人か、微妙に不明な女王もふくめた、周囲の反応もわからずじまいで、話はすすみ、誰だかわからんおじさんが、小舟で浜に上陸し、そこでオオカミに追われる王子を助け…何が重要で、何が重要でないのか、何が異様で、何が異様でないか、いっさいの説明がないままに、ただ現実だけが淡々と展開する。
以前、映画「トロイ」の批評で「どっちが悪い方かわからないから、感情移入できなくて感動しにくい」という文句が多かったとき、私は「カンフー・パンダ2」のツル同様、口をぱっかーんと開けるしかなく、こんなことに真剣に反論するのはあんまり世の中をバカにしてるというもんではなかろうかと、真剣に自問自答したもんですが、何が正義で何が悪か、わからなくっちゃ当面落ちつけない観客にとっちゃ、この展開は拷問に近かったろうなあ。
どう見ても主役らしい人物が、どう見ても悪人で、その理由もさっぱりわからず、その彼を受け入れて何も聞かず(そこは普通聞くだろ、問いただすだろ、観客のために、観客に代わって、と、きっと大勢が叫んだにちがいない)、いっしょに旅をするこのおじさんも、バカなのか賢いのか、どのくらい大人物なのかさっぱりわからない。わからないまま、どんどん話は進んで行って、いろんなことが起こりつづけて、何もまだわからないまま、次々おこるできごとに観客は対応しなきゃならない。
この不安。この何も見えなさ。「こんなに何もわからないのは、監督が下手で、この映画がクズだからだ!」とどなりたくなる人は多いでしょう。でも、いくら何でも、ここまで徹底していたら、それはわかった上でやってる確信犯と思うしかない。
私はこれを、楽しみました。原作なんか忘れはてていたけれど、原作を知っていたって、あの何ひとつわからない、つかめない状況はまったく同じだと思います。そうか、とにかく、こういうことが起こってるわけで、進みつづけるしかないんだな、という実感は、実に新鮮で面白い体験でした。
こんな世界になった理由も、登場人物たちの過去も、一向にちゃんと映画は説明しません。する気がないし、説明したって、それは単なるアリバイです。「猫を洗濯してはいけません」というたぐいの取り扱い説明書なみの、言い訳にすぎません。だから、すきがあれば、説明なんかすっぽぬかすし、あちこちぼろぼろ、わからないことだらけですが、いいのよそんなこと。と私は思っていました(笑)。
罪をおかした者も、できることをしようとする者も、皆、過去も未来も自己も他人も見えないままに、闇の中をほそぼそと光をともして歩くしかなく、ささやかな、つかのまの幸せをつないで行くしかない。その実感が、あの映画の全編にはあふれていたし、今になって思えば、原作者が何と言おうと、それは原作に流れていた精神でもあるのです。
実際、原作者が映画の出来に必ずしも満足していないらしい手紙を公開していることが、映画の失敗と言われる大きな理由となっているようですが、私は原作者ともあろうものが、自分の作品を映画化されて、そう簡単に満足できるわけがなかろうし、そのことを正直に述べた作者にはかなり好感を抱きます。このくらいの批判や不満は、私の基準では、ほめことばの内に入ります。歯の浮くような賞賛より、よっぽど誠実で丁寧な批評ですもの。
しかし、原作者の見解や感想がどうであれ、この映画は原作の精神や世界をかなりという以上に、よく表現、再現しています。
かりに原作者にめちゃくちゃに抗議され、かつ原作と似ても似つかぬ精神の作品になっても、映画として名作であることはいくらでも、大いに、ありえます。だいたい、映画化って皆、そんなもんじゃないのさ。
でも、この映画は、原作の本質をかなり的確につかんでいるし、作者がそれで不満を持ったのなら、それは自分の姿を鏡で見て衝撃を受けたのと似た気分だったのじゃないでしょうか、とまで私は、妄想をたくましくする(笑)。