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映画「ゲド戦記」感想(その6)。

私はこの映画の、一番好きだったところ、すばらしい、すごいと思うところに、まだふれていない。
それは映像である。
これまで私は映画の深読みをしまくるにしても、それはまあすべてせりふや筋や構成やの解釈だったのだが、この映画に限っては、そういう理屈や説明は、いっさいもう、どうでもいいと思うぐらい、全編、あの映像に画面にひきこまれた。

宮崎駿の映画で一番好きなのは「トトロ」だが、それ以外の作品では、あ、いいなと思う画面や映像は楽しんでも、あまり一貫性や統一性を感じたことはない。むしろ、ばらばらな感じを受けることが多い。一番そうだったのは「千と千尋」で、だからアカデミーを受賞した時には、今にはじまったことではないが、アカデミーなんてつくづく基準にならんと思った。

「ゲド戦記」の映像には、終始一貫、破綻がない。異質なもの、そぐわないものが入りこまない。前に言ったように、感動的で健全な場面では、わざとのように適当にかたづけて印象を薄くしている。
そうやって、最初から最後まで、この映画が描きつづけるのは、これこそ、原作に常に強烈にただよっていた、不安定さ、不均衡さ、不協和音だ。

それはもう、ゲドが浜辺に上陸するあたりから、ずっとそうで、もちろん最初の海の船や、王宮の場面などでもそうなのだが、王子を救い、さびれた村を通り、というあたりから、もうずっと、ひたひたと世界が崩壊しつつある、どこかのねじがこわれてきている、という息苦しい不安が見る者の心に押し寄せてくる。

何という緊張感、何という不安感、とかたずをのんで見ていたのだが、ホートタウンの街にいたって、その印象は決定的になった。
原作を読み直すと、小説でもあの町は、不健康で腐りはじめ崩れはじめている町として描かれている。オレンジとピンクと赤の色調についても、原作にきちんと書かれている。
だが、それを、あの映像で、あそこまで完ぺきに描き出すことが、いったい誰にできるだろうか。実際、私が作者なら、あの町の映像だけでも大感激して大満足するにちがいないのに、いったい何を見ていたのだろう。竜なんかほめてる場合じゃないだろうによ。

いったい、どこをどう描いたら、こんなに不思議な不健康な町の描写ができるのかと私は思わず、DVDを5回もくりかえし見てしまった(笑)。
だが、最初のころからの画面もふくめて、その秘密が、その手法がいまだによくつかめない。色彩なのか、構図なのか。どの場面も美しいし端正なのに、何かがどうしようもなく決定的に狂っているし、病んでいる。
淡い色彩で描かれる町の細部は、よく見るといつも手すりや石畳が、どこか壊れて廃墟になっている。だが、そういうことだけでもないような気がする。

しかも、それが、まあどの場面でもそうなのだが、一番典型的なホートタウンの町なみをとってみても、決してちらとでも、これ見よがしの不気味さはない。汚さもおどろおどろしさもない。
爛熟とか頽廃とかいうことばを使いたくなるが、それさえ、あてはまらない。そういうことばには、まだ人間のパワフルさが感じられる。リドリー・スコットの描くローマや未来都市なら、そういう表現はあてはまる。腐りはててゆくエネルギーが、たとえ後ろ向きにせよ、存在する。

ホートタウンの映像には、それはない。ロココ調の繊細さ、世紀末の華麗さもない。そこには人間の狂気や悪意が全く感じられない。それを言うなら、(多分ホートタウンが象徴している)この映画の世界全体に狂気も悪意も感じられない。
登場人物だけでなく、住民は、人間は、皆けなげにしっかり、正しく健康に生きている。ハジアとやらのあやしげな麻薬を売る売人や、人狩りをする兵士たちでさえ、別に特別の悪人に見えない。人間は皆、おおむね善意の普通の人たちで、なのに、どうしようもなくひとりでに、町も世界も病んで狂って、滅びつつある。

暴君もいない。凶悪犯もいない。普通の人たちが、普通に生きているだけなのに、町はじわじわ腐りつつある。
それはヴェニスのような(って見たことないけど)美しさとも多分ちがう。蠱惑的な妖しさもない。アレンがテルーと遭遇する広場や噴水のあたりなども、とても趣味がよく感じがいい空間だ。それなのに、何かが、どこかが、決定的におかしい。ゆがんでいないのに、ゆがんでいる。何も見えないのに、あってはならない何かが満ちている。病んでいる。狂っている。壊れつつある。ああ、もう、これはいったい何なんだと、呆然として見つめるしかなかった。

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カツジ猫