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映画「コクリコ坂から」感想(その3)

やつあたりついでに言っとくと、最近ナデシコジャパンというアホでセンスのないネーミングのおかげで、選手の皆さんだけじゃなく、さんざんイメージこわされて、えっらい被害をうけている(と私は思う)ナデシコの花の本来のイメージって、私はこのメルさんなんだと思うのね。
彼女は耐える女です。皆にサービスして尽くして、しかも犠牲になってる感じはなく、自分のこともちゃんとして、満足して幸せそうで。これこそヤマトナデシコですよ、あの花のイメージそのままです。

強いと言えばたしかに彼女は強い。こよなく強い。でも彼女だってほんとはつらいし、がまんしていることも多い。自分では気づかないだけで。
心身ともに疲れて弱った夢の中で、彼女は母親が家にいて料理をしている姿を見る。「お母さん、帰ってたの」と言う彼女に母親は「いつもいるじゃない」と言う。この映像と台詞は痛烈で痛切です。これがメルの本心の望みで願いです。でも母親は医学者かなんかでアメリカに行ったりしてるわけです。ここでも犠牲になるのはメルさんです。

だからこの母親がけしからん、フェミニズムはいかんなどと、もちろんこの映画は言ってないし、私も言う気はありません。だいたい母親が母親なら父親も父親で、アメリカだったらまだ帰っても来れるけど、父親は死んでやがるのですからね(笑)。
メルは母親に対してと同様、父に対しても文句は言わない、抗議もしない。「お父さん、なぜ死んじゃったの」などと、はしたない、泥臭い、無意味な叫びなんかはあげない。ただ毎日旗をあげる。それが彼女のたった一つの心の表現です。

だけど、彼女の立場に立てば、もーのすごーく許されないぐらいひどい話なのは、そんなにすべてをがまんして、それを不幸とさえも感じず、何も求めずひっそり優しく明るく生きてきた、この少女が、「海から父が帰ってきたような」思いで愛した少年が、実は異母兄かもしれないと知らされることで、彼女が求めたたった一つの幸せが、それさえもが、まだ手にしてもいない内から奪われそうになることです。

結局それは、彼女の父が友情と義侠心から、死んだ親友の赤ん坊を自分の子として戸籍に入れ、別の友人に頼んで養子にしてもらったといういきさつが明らかになることで、彼女と少年は異母兄妹ではないことが明らかになり、めでたくハッピーエンドになるのですが、それは後味のいい結末であると同時に、なんだかものたりない結末のような印象も与えるのか(多分与えるんでしょうね、私はしょーもないことあれこれ考えてたんで、そうじゃなかったけど)、ネットで見てると多くの人が「あれはほんとは兄妹じゃないのか」と、こだわっています。「あいまいで、はっきりしない」とかね。あれ以上、あいまいでなくする必要も方法もなかろうと思うし、あれは兄妹じゃないとしか解釈のしようがないと思うけど。まあこの監督のことだから、わざとあいまいにして、そんなこと思わせる余地も残したのかとも一応考えては見たのですが、それさえも、ありそうにない。あれはどう見ても、どう考えても、ただのハッピーエンドでしょう。

ただ、そこにこだわる人たちがいるのも、わからんではなくて、ひとつには「そんな単純な話じゃ、いくら何でもつまらない」という気分、ひとつには「それだと後味がいいはずだけど、何か釈然としない」という気分があるのじゃないでしょうか。
私に言わせれば、兄妹じゃなかったというのでは、しっかりハッピーエンドなんだけど、それはそれで、これはけっこう、ひでー話だからですよ。

父親が親友の子を、「このままじゃ孤児になる。見捨てられない」と自分の戸籍に入れちゃって、妊娠中だか授乳中だか忘れたけど奥さんのとこに事前の相談もなく持ってくる、奥さんは怒りもしないでそれを受け入れる、なんて今聞いたら正気の沙汰じゃないでしょうが、あの時代なら十分、けっこう、ザラにもう、そんな話はありました。その余韻は少しあとの私の世代にも残ってました。法律も常識も明日の暮らしも考えないで、衝動的に後先考えずに、何かを救う、行動する、それが普通の時代でした。

ちっ、も一回切るか。

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カツジ猫