1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. 映画「コクリコ坂から」感想(その4)

映画「コクリコ坂から」感想(その4)

つづけます。

少年たちがうつつを抜かし、少女たちも協力する、学生寮「カルティエ・ラタン」の取り壊し反対運動も、あれが学生運動としちゃなまぬるいとか、えらいさんに陳情に行くだけで解決するのかとか、いろんな声もあるようですが、学生運動も市民運動も、ああいうおおざっぱでのどかなお祭り騒ぎのような面は、もともと昔からありました(ちなみに私はそれが嫌いでしたけど)。「人生劇場」やなんかの学生たちの集会もたしか、あんなもんでした。
ついでに言うときますと、陳情されてあっさり寮の存続を決定する会長だか顧問だかのトップのおじさんも、今だったら他の幹部と話し合ってみないととか保護者の意見はとか、あれこれあれこれ配慮してうじうじ決定をのばすでしょう。それをああして、あっさり決断することによって、ひずみや矛盾もあっちこっちに出るはずで、でもそういうことはもうどーでもいいから、一番いいと思ったことをやっちゃう、というノリが、あの時代にはありました。

この映画は美しい映像と細密な描写で、そういう時代を描いていますが、決してノスタルジーで、その時代を美化してはいません。
男も女も、それなりの新しい生き方を大胆に求め、行動していた時代。外国にボランティアに行くのさえ「自己責任」が求められ、「人に迷惑をかけて」と攻撃されかねない現代では考えられないほど、他人のために自分のために、思い切った行動を皆がやっていた時代。
しかし、他人を救うためであれ、自分の生きがいのためであれ、人間が人間らしい生き方をつらぬこうとする時、そこには必ず、下積みになり犠牲になる誰かが存在します。メルのように。

それは現代でさえそうで、私も友人たちもそうでしたが、自分が輝き、世の中を明るくしようと思ったら、必ずそれを支えてくれた人がいたはずです。メルさんのように、毎日ごはんを作ってくれる人は、親だったり妻だったり夫だったり、とにかく誰かはいたはずです。

そこまではまだいいとして、私がこの映画を見ていて、一番痛切でぐさっと来たのは、何も求めないメルが、唯一求めた少年との愛を、最も残酷なかたちで絶望的に閉ざしたのが、父親が昔、能天気に友情と正義のために法律も常識もふみにじって強行した善意の行動だったということです。
私はその時代を知っているし、私自身もまたそういう行動をいくつもして、いろんな人を救ってきました。
しかし、それが、誰かにものすごい犠牲を強いる結果になることもあるということ、この映画の全体に漂う、その能天気な善行を行うパワフルさが、どんなひどい悲劇を生むかもしれないこと、それをメルさんの一言の抗議もないままに(昔の70年代の映画なら、「あんたの勝手な軽率な善意が、どんだけ私を苦しめたと思うの、おやじ!」とか娘は叫ぶことでしょう)、静かに痛烈に、この映画は告発しています(としか私には見えない)。

メルさんはあくまでヤマトナデシコですから、はしたない抗議はしないし、怒りさえ持ちません。この品格と温厚さは、どこか草食系などと批判される今の時代の若者にも通じるような気がします。メルは映画の中では、あくまでも古い世代の少女ですが、私はこれまた深読みですが、団塊の世代以前の世代にふりまわされた今の若い世代の、優しいつつましい、でもあまりにも的確な抗議と批判にも見えました。

ひー、まだ終わらない。あと一回だけ。

Twitter Facebook
カツジ猫