映画「ハリー・ポッターと死の秘宝(Part1)」感想2(とはとても言えない無駄話)
別に無駄話やないやん、と思っている人がいるかもしれませんが、まだまだこれからです(笑)。
昔、キャラママたちと児童文学の勉強会をしていたとき、第二次大戦前までは、児童文学も人類の未来や科学や機械文明を信じていて、「メリー・ポピンズ」などもそうだけど、基本的に自信にみちて前向きで明るかったのだけど、第二次大戦でナチスドイツの行為などを経たあとは、その楽天性が失われて、児童文学も善と悪の対立が描かれ、しかも善が非常に絶望的な状況で苦しい戦いをしいられるという設定のものが主流になった、ということが、おおかたの研究者の意見で、定説でした。その例として、「ナルニア物語」や「ゲド戦記」もあがっていたかしれません。
この定説が今も定説なのかは知りませんけど、実際のいろんなファンタジーや児童文学を見る限り、やっぱり「強い悪と必死で戦う正義」がふつうになってる気はしますね。
その中で、ちょっと、「ん?」と思わされたのはトレーシー・ヒックマン、マーガレット・ワイスの「ドラゴンランス戦記」系の話で、何が「ん?」かというと、この話では正義と悪はどちらも並存し共存して、世の中のバランスを保つ、みたいな世界観があるんですよね。
それは同じ作家だっけの「熱砂の大陸」シリーズとかでも共通していて、正義と悪はかっきり二分されてはいないし、悪がラストで完全に消え去るというわけでもない。
正義の戦いと言ったって、はたして自分の側が正義なのか?という問いかけも生まれてきてるってことなのかな。いろんな価値観や相対化っていうか、でもそれを児童文学でどれだけ、どういう風に表現するのかは、なかなか大変な課題とも思う。
「ハリー・ポッター」シリーズは、基本的には悪との融和があるのではなく、でももっのすっごーく微妙に正義と悪が同居しからみあいます。実際もう、これをラストで映像でどう表現する気なのか、私は心配しながら期待するわけですが、映画の場合。
もう、「死の秘宝・前篇」でもすでにそうですが、どっちの側ともつかない、あいまいな存在の人たちが、けっこう入り乱れてるんですよねー。で、悪が強くなるにつれて、そういう中間層があっちこっちに動く。まー、このへんはたとえ子どもの世界だって、現実にリアルにあることですから、決して不自然でもわかりにくくもないとは思いますけれど。
だけどまあ、それにつけても思うのは、私、原作好きだけど、めっちゃくちゃなファンではないので読み間違ったり読み落としたりしてるかもしれないんだけどさー、このヴォルデモートっちゅう、悪魔に匹敵する巨悪のおおもとって、挫折したかんちがい優等生エリートの屈折や嫉妬や孤独や疎外感なんだよねー。多分そうだったですよね?
どーでもいーけど、何とちんけな。そりゃ誇大妄想的に神になろうとか世界を変えようとか雄大な構想で悪をなすのもいやだけど、こういう、もうさみしがりやの、めだちたがりやの、かまってもらいたがりやの、せつない気持ちから生まれた巨悪って、もうほんとに情けないっていうか、脱力する。
「ハリー・ポッター」シリーズのつっくづく偉大なところは、正義の象徴ダンブルドア校長が実は万能でも完全でもなく、こういう、しょーもない、いじましい優等生をうけとめて悪の道に走らせないようにする器量を欠いていたこと、それを自分もよく知ってること、彼自身、そういういじましい優等生の少なくとも予備軍的な面は十分持っていたこと、なんだよねー、この物語の究極の悪というか、戦争犯罪人、過失責任者はダンブルドアその人でもある。そのせつなさ、そのきびしさ。
ハリーの父親だって、そういう点じゃ似ている。エリートの残酷さを持ち、スネイプをいじめている。この憎しみと恨みの連鎖をヴォルデモートとちがってスネイプが断ち切れるなら、それはほんとに偉大な物語なわけだけれど、どっちにしてもそれはわき筋の話でしかない。
この物語はダンブルドアとかスネイプとか、昔の児童文学だったら、脇役なりに安定して分を守ってた人たちを、むしろ物語のテーマの中核にすえて描いてる。最後まで読んだら、ハリーなどむしろ、脇役で、一番葛藤し悔恨しもだえてばたぐるってるのは、ダンブルドアやスネイプっていう風に見えてくるのが新しい。ていうか、すごすぎる。
わりとこの話の中で、そういうきびしい設定をされずに理想化されているのは、ハリーの母のリリーとか、ハーマイオニーとか、女性が多い。絶対安心なゆらがない神のような、これまでは男性がになうことが多かった役割を女性が受け持っている。その一方でベアトリスだっけ、ヘレン・ボナム・カーターが、もういい気持すぎそうに演じている狂気の魔女もまあ女性ではあるんだけどさ。
もうちょっとつづけます。