映画「ミッション 8ミニッツ」感想(3)。
あと二つ、書きたいことがあった。
8分が何度でもくりかえされるのは楽勝、と書いたんだけど、もちろん現実にはそれはキツイことで、たとえ少しづつ事態を改善することができたにしても、やっぱりすごいストレスだろうとは思う。
そういう時、この主人公(コルター)のように、たとえ、わずかな時間でも8分でも7分でも、よりよく生きよう、よりよい世界を作ろう、という気になる人も少なくないだろうとは思う。だが、その逆に、もうどうせ何やったって人生同じ結果で先は見えてる、と無気力や自暴自棄になる人も、もちろん少なくないだろう。
前者が大変でも案外多い気がするのは、実は後者は地獄だからで、ほんとは一見そう見えなくても、前者の方が人間にとって、多分ずっと楽だからだ。
前者になるためには、よりよい最高の世界を想像できなくてはならない。想像なくして創造なし、とオヤジギャグを言ってみる(笑)。
それを与える役割が映画や小説、芸術一般にはきっとあるんだろう。
この映画の、それなりのハッピーエンド結末は私は気に入ってるが、かりに、コルターが最後まで爆破中止に失敗して、列車の中の人々が彼のつくったつかのまの幸せの中で最期を迎えたとしたら、この映画の訴えようとしたことは、ものすごいまでの切なさと破壊力で見る人の胸をつらぬいただろう。
人生がどんなに短くても、幸せがどんなにささやかでも、それは決して空しいことではないのですよ、というメッセージが、映像から圧倒的な迫力で迫ってきただろう。
それを伝えるのが、あの最後に近いストップモーションだと思う。
実際には観客を感動でもみくちゃにして死ぬほど泣かせるよりも、この映画は少し生ぬるいが優しいハッピーエンドを選んだ。それはそれで正しかっただろう。ハッピーエンドでなかった場合の、そんなすごい感動にたえられるほど、この疲れた現代は多分強くはないだろうから。
それで観客には充分に、「どんなにささやかで短い、無意味なくりかえしに見えても、人生は悪くないし、努力はしてみていいものだ」と実感できる。赤の他人が乗り合わせる電車の中だから、それは自然と社会や世界に通じるのだ。
この感覚は、実は年をとった老人にも共通する。周囲で起こる悲劇も喜劇も、すべて、どこかで前に見たことがあって、あわてはしないが感動も呼ばない。賢く対処できるが、成果はどうせそこそことわかってもいる。
コルターは何度も8分を体験する内、きっと精神は老人化する(笑)。それでも若々しく、「今度こそは」と奇跡を信じて期待し努力する老人もまた少なくないから、彼もそうなればいいだけのことではあるのだが。
えーと、あとひとつあるんだけど、これはまた、夜にでも。