映画「標的の村」感想。
◇昨日、近くの試写会で見てきました。よかったですよ。
米軍のオスプレイって欠陥だらけで危険千万な戦闘ヘリは、すでに日本のあっちこっちの上空で飛んでますけど沖縄では2年前、これを持ち込ませまいと、普天間飛行場のすべてのゲートの前に、自家用車や人間が折り重なってじゃまをし、22時間くいとめました。暴力を使わず、ただ地面にしがみつく、それでも激しい抵抗の中、結局彼らは皆排除されましたが。
むなしい抵抗、つまらん抗議と言う人もいるかもしれませんが、その前に県民も議会も知事も皆一致して、何度も何度も来ないでくれと要請し、説明会をしてくれと頼み、そんなのを全部無視して強行配備しようとするから、本当にあとはこれしかすることはなかったのです。
党派を超えた議員たちも、バリケードにおいている車の中で「恐いけどほかにしかたがないじゃない」と語る上品なおばあさんも、老人も若者も、皆、身体を張ってゲートの前に立ちふさがりました。
沖縄のテレビ局などの報道関係者もかけつけて、警官隊に(彼らも地元の人たちだから、つらそうでした)排除される人々を撮影しましたが、その彼らも現場から引きずられて排除されました。この人たちはゲートを封鎖してたんじゃなく、撮影してただけなのにね。
そして、この事件は日本ではまったく報道されませんでした。
秘密保護法とかまだなかったころでも、これです。私たちはこんな世界に住んでるのです。北朝鮮を笑えんわ。
◇この映画は、その数年前、このオスプレイが着陸するヘリパッドという着陸地帯を山の中に作ろうとするのに抵抗した、小さな小さな集落の人たちのことから話をはじめます。
東村(ひがしそん)・高江というこの村は、本当に小さくて、森や小川に包まれた、この世の楽園のようなところで、6人の小さな子ども(猫もいましたよ。ござのハンモックから顔だけ出して昼寝してました)を育てて喫茶店をしている夫妻とか、沖縄独特の位牌や漆細工を作っている職人とかも住んでいます。
なぜだか、この高江の集落の周囲は米軍基地にがちっと囲まれています。あたり一帯、山なのに。
当然、集落の方が先にあったんでしょうから、何であんなとこに基地を作るかなあと地図を見てすぐ思ったんですが、これがまた、何ともう、とことん人をバカにした話で、だからこの映画のタイトルは「標的の村」なんですよ。
米軍は、この高江の集落の上を飛んだり監視したりして、アジアの小さい村を攻撃する練習に使ってるようなんです。だから、ここの人たちが皆いなくなったりしたら、それは米軍も困るんでしょう。
そんなアホな、と笑いとばせないのは、現に50年ほど前、ベトナム戦争のころ、沖縄には「ベトナム村」と呼ばれてた場所があって、そこはベトナムの森と農村風に作られ、住民がベトナム人の衣装を着てベトナム人やゲリラの役をやらされて、戦闘訓練に使われていたんだそうです。当時を知る人もたくさんいるし、実際に参加した老人や子ども役で参加した今の大人たちもいました。高江の人たちも多く参加しています。(枯葉剤を散布したと証言する元米兵もいました。)
だから、今でも明らかに夜など米軍の戦闘機は、高江の住家の灯りを見ながら、村を攻撃する戦闘訓練をしているらしいのです。
◇しかも、いつ落ちてもふしぎはない欠陥機のオスプレイの着陸地が住家の数百メートル近くに作られるというんで、当然高江の人たちは説明を求め、抗議もしたんですが、例によって「そんな話はありません」「オスプレイは来ません」とかずっと言いつづけていて、いきなり工事が強行された。
住民はもちろん抗議して一度はやめさせるんですが、そうしたらいきなり日本政府は住民を「通行妨害」で裁判に訴えました。
山ん中の、シカも通るかみたいな舗装もしてないような道ですよ。そこで工事関係者と押し問答して、もちろん暴力沙汰なんかもなくて、まあだから「通行妨害」ぐらいしか言えないわけでしょうが、それにしたって「通行妨害?はあ?」としか言いようがないような訴えで、しかも6人の子どものご夫妻は、7歳になる長女まで訴えられて被告になってたのです。彼女、現場に行ったこともないのに。
こういう裁判(大きな権力を持ってる者が、それに抗議した者を訴える)はSLAPP裁判と言って、アメリカでは禁止されてるらしいです。日本はそういうところはアメリカの真似をしないのね。反対運動を委縮させることが目的なんだそうで、実際仕事休んで裁判に出かけたり、経済的にも心理的にも皆大変な苦痛でした。
結局、最終的には漆細工の職人のおじさん(本当に普通の温厚な方)だけが被告になって、裁判闘争が続いているようです。この人だって、手を高くあげて皆に指示をしたとか、ほんとに何それみたいな告訴理由ですよ。
◇見ていて、つくづく感じるのは、沖縄の人たちの立場や気持ちが私たちには本当に知らされていないということです。原発や基地を一部の地域に押しつけて、その苦しみを知ることも見ることもしないでいる私たちの罪深さです。
何だかねえ、集団的自衛権を支持する人たちの発言を聞いていても、私が一番いやなのは、「国際的な責任」とか「日本を守る」とか言って、それ結局自衛隊の人たちか誰かがでしょう? 自分たちがどういう犠牲を払うかってことがいっさい考えられていないようにしか見えない。あ、このことはまた書きます。
この映画、7月27日に宗像市の河東コミセンホールで、10:30~と13:30~の二回上映します。でも、全国どこでももし上映されることがあったら、皆さんぜひ見に行って下さい!
◇私は最近、老人ホームの母に見せるため、猫のDVDを借りて来ることが多いんですが、「美(ちゅ)ら猫」とかいうシリーズで、沖縄各地でのんびり暮らす猫たちの話をいくつも母と見たばかりでした。
のどかな空間の中で、緑や白い砂に囲まれて生きていた猫と人間たちの生活が、あの「標的の村」高江にもありました。
そして、ああいった村を「標的」として練習して、米軍が爆撃する、アフガンやイラクやその他の村々にも、同じような人間や生き物たちの暮らしがあり、それが一瞬にして炎の海の中に消えるのだと、あらためて感じます。
憲法解釈や戦争について話すなら、考えるなら、まずその実感から始めてほしい。