映画「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」感想(3、これで終わり)。
今回の「猿の惑星」でも、そうなのですよ。虐げられていた、権利も何も認められていなかった、ある「種」が、自意識を持ち、連帯し、目覚めて、ついに立ち上がる。それは女性でも黒人でもあらゆるマイノリティでもいい、そういう存在に通じる壮大なドラマで、それが「猿」であるからこそ、それは見る人の価値観や精神を腹の底からゆさぶることができるはずです。
人権が、あくまで一応はですが、基本的にここまで認められた世界では、少なくとも先進国では、もはや人間が題材では「そんなに人権認めて大丈夫なんですか?」の問いかけは、多分もう許されない。けれど、「猿」を使えば、その問いかけもきっとできる。「認めるべきだ」という、あらためての再確認も、おそらくできるでしょう。原作の小説や、オリジナルの映画には、それはしっかりあったと思います。
でも、この映画では、猿たちの目覚めも蜂起も、そういうおののきや感動につながらない。私は猿たちの人間への一斉攻撃を見ながら、おーい、ちょっと待て、指揮系統はどうなっている、君らを支える哲学は何だ、その行動につながった信念は何だなどと、あまりにもアホらしいことを考えていましたが、たとえ暴徒でも立ち上がるには、それ相応の原因と過程があるもんですよ。指導者や組織があるもんですよ。
で、そういうアホなことを考えている内、猿より私の方が覚醒して、「あー、これはやっぱり、アメリカの社会派映画なんだなー、例によって、間抜けなチェスを見せられてるような気分になる、例の一種なんだなー」と思い知りました。
まー、これじゃどう考えても、猿は人間を支配はできんわなーと確信したあたりで、人類の滅亡には別の原因もあったと映画のラストはフォローし、脱力もしましたけど、あ、これじゃ猿は人間を滅ぼせないとさすがに制作者もわかってはいるわけね、と変な安心も一応はしました。
ここまで言っといて何ですが、そう悪いできではないと思うし、「スタンド・アップ」でも「ミシシッピー・バーニング」でも、評価は高いし感動した人も多いみたいだから、それならこれだって、そこそこ感動はできるんではないかと思います。しかしなー、まあこの映画がそうかどうかは別として、あらためて思うけど、アメリカの良心的社会派映画には何がいったい足りないんだろう? 映画ではゴジラ、現実には9・11以外には、自国を戦場にされたことがない(南北戦争はあるけど)、他国の爆撃受けたこともないこととも何か関係があるんだろうか。