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映画「300」の感想…かしら?(笑)。

◇今日、仕事で街に行ったので、「世界の果ての通学路」を見ようと思ったら、こっちの勘違いで、もう上映が終わっていました。何か最近、ついてなくて、映画を見逃しまくってます。この前は「チョコレート・ドーナツ」を見に行ったら時間をまちがえてて、結局見られなかったし。まあこれは、まだ当分やってるからいいけど。
その時は、くやしかったので、「300」の続編?を見て来ました。まあどうせそんなことだろうとは思ってましたが、何か運動会を見てるような映画でした(笑)。

まあ私はあの映画、第1作の時も映像の妙な劇画風が好きっちゃあ好きなので、筋とかもう別にどーでもいいんですが、エヴァ・グリーンはいつも通りでしたが、あの役には合っててカッコよかったし。ですが、彼女をカッコよくするためとはいえ、あれじゃクセルクセスは、あらゆる意味で、あんまりかわいそうですね。人造人間、あやつり人形、フィギュア、おもちゃ、いいとこない。ゴルゴ王妃があんなに強かったっけという問題もありますが(笑)、あんなに男性を虐げられた能無しのアホに描くのは、逆差別じゃなかろうか。

◇いやー私、清岡卓行の「アカシヤの大連」の感想書こうと思ってそのままにしてるんだけど、まあ「アナと雪の女王」の悪口言うのと、清岡卓行の悪口言うのと、どっちが天を恐れぬ所業になるんだろうと、不毛な疑問を考えたりしてたのですが、あの小説、そりゃあきれいで、よくできてて、徴兵される不安にかられて不安定になってる若者の憂鬱や重苦しさは、もうぜひ今の若い人も読んでほしいし、その一方で中国の風土やそこの人々に向けるとても自然に優しい優しいまなざしや心情は、そりゃあ、その時代は日本がいい思いしてたからということがあるにもせよ、本当に今と比べて驚く他なく、こんなに日本人はアジアの人に対して親しみを抱いて生きてたのかと、あらためて感じ入ったりするのだけど、まあ私を知る人ならよくわかるように、これだけほめたら、そろそろ次は悪口なわけで。

この小説の、そういう優しい繊細な心情の根底に流れるのは、亡くなった奥さんへの追憶と愛情なんですが、まあそんなこと言うてもしかたがないしヤボなんですが、もうまったく、この奥さんが人間と思えないほど美しくてすばらしくて、その分他の女性はもうものすごく粗末に拒絶してるし、作者自身と重ねていいんだと思われる主人公は肥った中年男と自分で書いてるのだけど、それでもまったく悪びれず堂々と、若くて美しい女でないといやだと言ってるし。ほとんどもう、笑ってしまって、いい人やなあと思う一方で、この人も奥さんも家族も何かすごく気味悪いと感じてしまうし、もうこっちも、それならという気分で、主人公が奥さんに似た若い女性につきあおうとして、じわじわふられる様子を楽しんで読んでしまうという、思いきり邪悪な読書をしてしまいました。

どういうかなあ。そりゃ原民喜の「夏の花」の亡くなった奥さんも思い出と愛情の中で、きれいに描かれているし、古今の優れた文学にそういうのが多いのはわかってるけど、でも私ねえ、むちゃくちゃ言うと、今の政府や日本の男性の全部じゃないけどかなりの部分が、ピント外れな少子化対策やら慰安婦発言やバカなヤジやらをやらかす根底には、少なくとも「アカシヤの大連」の世界の気分が流れていると思うのね。
外見も心情も美しい(正確に言うと自分の好みにぴったりの)女性を夢中で愛するのはいいけど、それ以外の女性の良さはまったく見ようとも考えようともしないし、もしかしたら、その愛する女性のいやなところや気に入らないところも決して見たり考えたりしない。自分たちは肥った中年男でも、少年のような繊細さと清々しさを持ち、でも生身の生きた女に対して、その醜さ(特に美しい外見の人の)も、美しさ(特に醜い外見の人)も、はなから決して断固として見ようとも考えようともしない。

◇「セックス・アンド・ザ・シティ」の女性たちの滑稽で痛々しいほど真剣な、自分らしさの追求や爆発、それに向かい合って傷つけあう男たちの姿とか見たあとでは、「アカシヤの大連」の奥さんって本当に生きた人間と思えないのです。
それ言うなら、最近読んでるレマルクの小説だって、「アカシヤの大連」より昔だし、相当美化されたすばらしい女性が出てくるけど、でもそういう女性でも、主人公の男性と対立するしごまかすし自己主張するし、読んでてこっちがイラつくほど、不愉快な面をきちんと見せます。

あれだよなあ、ソクラテスもトルストイも悪妻で有名だけど、それはそれだけ立派な人たちだったから妻もそれだけちゃんと人間らしくなれたんだし、それともそういう女性だったから、夫は立派な哲学や文学を生みだすことができたのかもな。

◇美化される女や妻が大抵死んでるってのも、ポイントなのかもなあ。私、昔「グラディエーター」の映画で主人公が亡くなった主君や妻にすごくピュアな愛を注いでるのを、「死んじゃった人たちだから安心して愛せるんじゃないの~?」と、それでもファンかというような、ものすごい解釈をした人間ですが、ほんとに、マキシマスや清岡卓行や原民喜から何べん首絞められて殺されてもすまないかもしれないのを覚悟で言うと、こういうのって、一種の屍姦みたいなもんじゃないかって思うのよ。

そういう男の人って、まだまだ多いと思うんです。私あまりよく知らないけど、けっこうちゃんとした意見を持ってる方で、フェミニズムの運動についての発言がフェミニズムの人たちから批判されて、反論というか弁明というかした文章(↓)を拝見して、あー、こういう人でも、こういうように、たとえば「私つくる人」のCMからはじまって今にいたる女性たちの抗議は見えてるのかと、あらためて、ものすごく、どよーんとしました。ああいうCMで私が感じた苦しみや痛みや孤独やせっぱつまって追いつめられた感じって、そんなにわからないんだろうなあと。

http://takoashi.air-nifty.com/diary/2014/05/post-c711.html

◇でも無理ないんだよね。「アカシヤの大連」なんて芥川賞取ってるんだし、あの時代だったら、すべての小説や映画やドラマって、このノリだったんだもの、ほとんどが。
「アカシヤの大連」読んだあと、「ねえ、委員長」とか、今の若い人たちの小説をたてつづけに数冊読んで、もうそんな感覚まったくなく、男も女もそれぞれに生き生きと等身大でぶつかりあってるのを見て、何といういい時代になったんだろうと、つくづく思った。まるで全身の毛穴から毒素が抜けてくようだった(笑)

◇あ、でも話を戻すとさ、そういう風に考えると、いくら女性の権利が認められて、強い女が描かれるようになったというてもね、「300」のクセルクセスみたいに男性を描いてはいかんのではないかと思うのよ。ただもう、何となくですが。
あれが悲惨とか残酷とか、そういうように描いてるんならいいんですよ。でも気づかないでそういう風にやってしまってるんだもん、多分。
そういうのって、前に女がやられたことと同じじゃないかと思うのよね、ただもう、何となくですが(笑)。

あと、第1作の前日談でも後日談でもなく、同日談という設定は、最初はたしかにちょっとわかりにくいけど、発想としちゃ面白かったな。

◇なんかまだ書くこといろいろあった気もするけど、もうこんな時間になっちゃったんで、明日も早いし、ここまでにしときます。そうそう、そろそろお中元も買わなきゃだけど、なんかアイディアが思い浮かばない。困ったなー。

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カツジ猫