映画と小説「小さいおうち」感想(2)。
◇以下ひきつづきネタばれよん。
だいたい、時子と板倉は、たがいがどれだけ自分を好きなのかさえ、わからないまま、さぐりあってた時期がかなり長い…どころか、ひょっとしたら最後までそうだった可能性もある。そこがこういう恋愛の一番厳しいせつないとこじゃないですか。あれだけはやばやとたがいの意志が確認できたら世話はないし、その上で、旦那そこのけで二人でずるずるやってたんなら、アホの上に最低でしょーが。
「これはそーゆーつきあいじゃない」「この気持ちはそんなんじゃない」と、自分もごまかしながら、続けているからできるんですよ、あーゆーことも、こーゆーことも。
見合い写真のあっち行ったりこっち行ったりも、そのへんがあいまいで確認できない関係だからこそ意味があるんで、だいたい、台風の夜にキスまでした関係で、あんなことしてたら、それは原作の場合と持つ意味がまるっきりちがうし、あの人物設定もめちゃくちゃでしょ。私に言わせりゃ人格破綻してるとしか見えんわ、二人とも。手紙とはがきで、「気持ちを確認する」みたいなやりとりして、奥様が出かけるときも、「いったいぜんたい何をいまさら確認するねん、体位の好みかなんかかい(下品ですみません)」と、ぽかんとした私はアホですか。
◇それでも、そのへんはまだ私も片目つぶって見逃してたんですけどね。最後近くの例の手紙を甥っ子(ほんとは一世代ちがうけど、めんどくさいから、もうそうしとけ)が恭一ぼっちゃま(今は老人)の前で読むシーンで、もう完全にこりゃだめだと思ったの。
「この年になって母の不倫の証拠を知らされるとはねえ」と恭一さんは言うのですが、小説では、それは多分ほほえみながら軽い感じで言われている。すぐ続いて「僕は知っていたけどね」と彼は続け、「母は困った人でした。危なっかしくて魅力があって、誰もが好きになったし、甘やかしたくなった」みたいなことを言います。小説全体がそうですけど、この場面も、とても軽やかで涼しげで洒落ていて、そして哀しくて切ない。
それが映画じゃ、恭一さんはショックを受けて「参った!この年になって母の不倫の証拠を知るとは!」と言っちゃいます。もちろん、後のせりふは全部カット。ほんとに、「わー、おれどうしよう」みたいな演技で、手紙を読んだ甥っ子も、あわてて「すみません」と謝るぐらい。
私が見た映画館の観客は山田洋次ファンなのか、皆、熟年の方々でした。そして、この場面では客席からは暖かい笑いが起こったのですよ。ええ、明らかに監督は、ここを、そういう笑わせる場面として描いたんです。ドタバタ喜劇と紙一重の。
あーあー、もうなーんもわかってないんだなー、あんなにきれいな小説を、どういう風に読んだんだろ、と私は頭をかかえました。
原作は同性愛ももっとしっかり描かれてるし、いろいろな愛の形が、いかにも自由に許容されています。爛熟や腐敗になりかねない、危険な香りもたたえながら。そういう時代の象徴としても、美しい「困った」母である奥様の時子は存在した。それを理解し愛し、母が完全に自分のものでない不満や淋しさも抱えながら「小さいおうち」で過ごした恭一の言葉と態度は、あの時代への切ない愛情でもある。戦争を食い止められなかった、でも美しく魅力的な日々への。
そんな深くて複雑なあの場面を、寅さん風の安っぽい人情喜劇に作りかえた監督を、私は許せないとさえ思う。
◇考えて見りゃ私は「寅さん」も「学校」も見てないし、山田洋次監督の作品って多分苦手な方なんだよねー。まったくさ、井上ひさしの作品もそうだったけど、主張してることや生き方はまったく共感し尊敬できるのに、作品の方はまるっきり受けつけないってのは不幸だよなー。
東京都知事選もたけなわだし、首相はあいかわらずとぼけたことを言うとるし、日本の状況がこんな時に、志の立派な監督の映画をけちょんけちょんにけなすのはつらいけど、でも、こんな時だからこそ妥協したくはないんだよなー。ひょっとして、私とあべこべで、憲法変えて戦争したいけど、山田洋次の映画は好きでたまんないって人もどっかにいるのかしれないけどさ。