未亡人の心得
だいぶ前に読んだミステリで、夫を突然亡くした若い女性が知人に、「急に生活を変えてはだめよ。一年ぐらいはこれまでと同じように暮らすのがいい」とアドバイスされる場面がある。
十六年飼った猫のカツジがけっこう突然体調を崩して死んだ。庭に埋めて、彼がいなくなったらいろいろと暮らしを変えられるなと思いつつ、ひょいとそのアドバイスを思い出しては、まあ大幅な改変は急いでしない方がいいかなと考えている。
出かける時も帰った時も、彼がいないのにはまだ慣れない。どことなく気楽でもあるが、淋しいというよりふしぎな感じだ。古い母屋の前に母の隠居用の小さいワンルームの家を建てて、結局母は老人ホームに入って使わなかったから、私が離れのように使っていた。数匹いた猫の中で一番古参の雌猫シナモンを住まわせるのが理想だったが、彼女は鋭い爪で柱も細くするほどに(笑)せっせとひっかく癖があり、さすがに新居に入れるのはためらって、一番新参者のカツジを暮らさせることにした。思えば、この家が出来てからずっと十六年、彼はここの住人だったことになる。そりゃ、どことなく家と一体化するはずだ。
うまく言えないが家のどこかでかすかな音がしたり、何かが動く気配があると、とっさに彼がいるような気がする。どこに行くにも何をするにも彼の存在を意識して暮らした日々がなつかしいし、もっと続けばいいと思う一方で、彼の年や自分の歳を考えると、それがいつまでも続くはずはなく、続けばそれはそれで悲劇かなとも思う。自分の身体や判断力が衰えて充分に世話もできなくなる頃に、彼が弱って手厚い看護が必要になったら、どんなに大変だろうかと私はいつも身構えていた。
その不安がなくなり、彼がまあ平穏に幸せに死んだことに、肩の荷を下ろしたような感謝がある。二十数年まえに愛猫キャラメルが死んだとき、私は深い嘆きの中で「もう誰も、何も、彼を傷つけることはない」という強い安らぎも感じていた。その慰めは今もまたある。どんな不幸もどんな苦痛も届かないところへ彼が行った、もう安心だ、私の役目は果たしたという、不出来な守護天使のような安堵感だ。
その安らぎはたしかにある。一方で彼との暮らしがまだ欲しい。両立するわけもない二つの望みを同時にかなえられないものかと思いつつ、どっちかを選ばなくてはいけないのだなと、あらためて思う。
さしあたり、家の片づけがてら、あちこちに彼の写真を飾っている。お墓の回りもきれいにしたいが、墓石の代わりに注文した、踏み石用のタイルが製造してからの発送とかで、まだ届かない。それが着くまで、ぼちぼちと、周囲の木の刈り込みなどをして行こう。
猫や犬をこれまで数匹庭に埋めたが、ひと月もすると土に還るのか、埋めた場所は少し沈んで低くなる。それまでに、新しい砂でも買って、少し盛り上げて山を作っておこうかとも思う。(唐突に思うが大河ドラマ「べらぼう」で、主要人物が亡くなって、野に埋められて土を積んだだけの粗末なお墓が周囲にも延々と広がる場面は、切なくもすさまじくも、どこか清々しく暖かく美しいが、あの土饅頭の数々も、その内低くなって平たくなったりするのだろうか)そういうことをあれこれ思うと、時間的にはちょうどいいのかもしれないな(笑)。
九月になって、八月のカレンダーを破った。でも、キャラメルが死んだ年のカレンダーを捨てられず取っているように、この八月のカレンダーもきっとカツジの思い出に保存しておきそうな気がしている。
