痛みとしっぽ
仕事は一応無事にこなしているのだが、何とはなしに疲れている。先週末に水まきしながらホースに足をとられて転んで、膝を痛めたのもきつい。病院に行ったら骨は折れてなかったので一安心して、痛み止めを出しましょうかと言われたのに、大丈夫だろうとたかをくくって断ったのがまずかった。右足全体痛みが広がり、動くのもやっとで、庭仕事なんかしていたら、痛みのための冷や汗か油汗か普通の汗かわからない汗で全身ぐしょぬれになる毎日である(笑)。
その後、痛み止めも一応もらったが、使うと毎日どのくらい回復してるかがわからんからなあとか思って、つい飲みそびれている。何しろ毎日少しずつ微妙によくなって行くので、その程度をつい把握したくなるのである。まあ、急ぎの仕事もないし、こんなものでいいのだろう。
それにしても、こんな怪我や痛みが日常のアスリートたちは、すごすぎると感心する。私はもともと痛みをこらえて仕事に邁進するというシチュエーションを美化したり感動したりするのが嫌いで、実は映画「国宝」でも、唯一ちょっと気に入らないのは、多分誰もが一番感激するかもしれない、主人公の一人が足の激痛に耐えて名演技をするくだりで、そういう舞台は見たくないと正直思うし、現実でも役者が死ぬ間際まで苦痛をおして舞台に立つのなど、ただの自己満足で悪趣味でやめといてほしいとしか思わない。しかしまあ、コミック「忘却バッテリー」で藤堂くんが言ってたように「野球はどっかしら痛いんだよ!」というのは多分本当だろうし、不調や苦痛を抱えて出場している選手を除いたら、グラウンドには誰もいなくなるのかもしれない。
ホークスの本多雄一コーチは以前インタビューで早めの引退の理由を、首の痛みが耐え難くて「こんな痛みを我慢してプレーしつづけるのもどうかと思って」みたいなことを言っていた。それほど日常的に苦しくて人生の選択に関わるような水準の痛みに毎日耐えているのなんて、あんたはフリーダ・カーロかいと思ってしまう。サルマ・ハエックの演じた映画の中で彼女はたしか「苦痛とも親友になれるのよ」とか口にしていた。
本多コーチの指導した周東佑京選手も今やホークスの花形で、「満身創痍」と皆から言われるほど身体も痛めているようで、そもそもこの人、去年だったか、盗塁王のタイトルもとって大活躍した年に足の調子がよくなくて、今年になってのインタビューで「朝起きたらいつも痛かった。ちゃんと曲がらないこともあった」とか、あまり悲痛な風でもなくしれっと言ってて、読んで目を疑った。近藤健介選手もまた、足を捻挫していても、何食わぬ顔で走塁などして見せていて、喜瀬氏の「ソフトバンクホークス4軍制プロジェクトの正体」によると、「それが、主力としての自覚とプライドである。自らのポジションを空けるスキなどは、決して見せない。空けたら最後、誰かに獲られてしまうという危機感こそが、近藤や周東のような主力選手ですら、戦いのモチベーションを維持する原動力なのだ」(227ページ)ということだ。
もちろんそれも充分にあるだろうが、同時に周東選手が「盗塁王になりたくて走ってるんじゃない」とチームの勝利への貢献が第一だと口にしているのも、多分まったく本心だろうし、そういう精神もまたあるところが、彼らやチームの強みなのだろう。こういう一体感や同胞意識が実際の戦争などで発揮されると有効であるとともに危険なことだが、それ以外なら、苦痛も克服し人生も楽しくするのはまちがいなく、いいことだ。
私の場合、歩いたり動いたりしなければ痛みはまったくないので、ベッドに転がっていればいいのだが、こうなると、いつも具合の悪いときに握って眠っていた、猫のカツジのしっぽがほしくなるなあ。先月二十三日に死んだ彼を埋めた庭の墓の土は少し盛り上がっていたのが、心なしか平べったくなって来たようで、そろそろ彼の身体もしっぽも、土に還りつつあるのかもしれない。
あのしっぽの代わりにつかむキーホルダーでも買おうかと冗談に思ったこともあったけれど、それは無理だと知っていた。彼のしっぽは、握っていると、ときどき私の手の中で、中の筋肉が小さくぷるぷる動いたり、先が動いて波打ったりした。寝ている彼の見ている夢を共有しているようだった。その手触りはまだ手のひらに残っている。キーホルダーじゃそれはない(あったら恐い。笑)。
ひとつ、ふしぎなことがある。以前に死んだ猫たちは息をひきとるとすぐに固くなってしまうので、身体を丸くまとめたり、目を閉じてやったりするのに忙しかった。でもその間も、しっぽだけは生きていたときと変わらず、ふらふらとやわらかくゆれていた。
カツジはその逆で、死んでもしばらくずっと、暖かくやわらかく、動物病院にお知らせしたばかりだったので、私はひょっとしてまだ死んでないんじゃないかと相当あわてた。夕方までには、ちゃんと固く冷たくなったのだが、その時、しっぽも少しこわばって、他の猫たちのように全部がゆらゆらしてなかった気がする。何となくとまどって、私はそれをちゃんと確かめられないまま、とりあえず身体にまきつけてやったのだが。
とにかく今は、彼の写真をあちこちに飾っている。死んですぐ、何だか動揺して、アフタヌーンティーでしゃれた写真立てを注文してしまった。届いたらめちゃきれいで、うれしかったが、これに猫の写真を入れるとくどいような気がして、彼を葬るときにいただいたお花の写真を入れることにした。他の方からいただいたお花も並べて写真を飾った。
こうやって、ままごとみたいなことをしてると、何だかカツジと遊んでいるようで、しょうもないけど、やめられない(笑)。


