母と、母の母(1)
2022年母の日の記念企画です(笑)。
祖母も母もずっと前に亡くなりましたが、母と叔母が長崎の活水女学院の寄宿舎にいたころ、宇佐の家から祖母が二人に出した手紙がたくさん残っています。
祖母の字は草仮名なので、私の死後は親族も読める人がいなくて困るのではないかと、少しずつでも翻刻しておこうと思いつつ、放っていました。
今年の母の日の企画として、これから少しずつでも、紹介して行こうと思います。
全く適当に選びますので、そこはお許し下さい。
第一回の今日は、祖父が家業の医者を四人の子どもの誰かについでほしくて、特に目をかけていたらしい私の母に拒絶され、家中が荒れていた時期のものです。あれ、母の日に紹介するのにふさわしくないかな。しかし、わが家らしくていいんじゃないでしょうか。
文中「兄さん」とあるのは、長男で私の伯父、母の兄で当時同居していたようです。「元」は叔父で板坂元、やはり同居していました。
澪子様 母
御手紙今十六日の朝よみました
南生ちゃんが頭痛で伏せてますて困ったものね この頃は又悪るい風がはやるから風じゃないかしらん 内でもお父さんも私も兄さんも風工合で閉口してます
十五日の朝御父さんが朝飯前からせっせと手紙書いて居らしたからどこにかいて居らっしやるかとおもつていたら後で仰言ったのですが澪子にヒニクをかいてやったとかおっしやったのでお母さんもまあと実はあきれたのよ 今度の女医専問題で御父さんと兄さんは一昨バンなど二時まで御父さんは英専を出たってこれからは飯がくへるものかとおっしやるし兄さんはそれは矢張り英語やってた方が飯はらくに食へると云ってわいわい両方からそれはひどかったのよ それでお母さんは本人が何ふ云ふかそれできめなければならぬ問題だからとやっと打ち切って休んだのよ 澪子にあの手紙を出し成すった日には内の者にも機嫌がわるく内の子は我まゝでおれの云ふことはきかんとぐづぐづ云って成すったのよ 御父さんも年は取っても生れながらの気質はどうしてもなほらないと見えてやはり無茶をおっしゃることが多くこうして一處に毎日暮らす者は命がちゞまるやうですよ 兄さんはお父さんの云ひなさることを眞面目にきく者があるものですかといってくれるけどそう何事も知らぬ顔でも過されぬしね 時々は腹が立ってにえくりかへるやうなこともありますよ でもこの人から養って貰らつてるのだからと自分でなぐさめなぐさめして来ました 今度澪ちやん達がかへる時分にはけろりと機嫌がなほってましょが又何かおつしゃた時はだまって居なさい 兄さんの言のやうにきかずに居ることですよ お父さんは始終四人の子供の内で澪子が一番しっかりしてる おれは澪子が一番たよりになる澪子なら何でも出来るとおっしやってましたよ それが医専に行かないとて下らぬことを云ふ父親がありますか 初めから決して無理には云はないからとくれぐれもいったくせに 色々とくり出して見るとうらみがつきません 唯々取柄は患者を診察するのに眞面目で忠実である丈け 最も仕事に熱心なのは何よりでこれ以上のことは望まれないかも知れないがね 又一方から考へるといゝ点も沢山あるやうです さつぱりしてる處がいゝね 目の玉の飛び出るほどおこるかとおもへば十分も経たぬ内にケロリとしてるからね いくら私など注意したってきゝこなし 死ぬまでこの調子で行くのよ 皆はこれが内の御父さんだとよくのみこんでかゝらねばなりません 時々は元さへ笑ふことがあります 私は元にも看護婦下女金どもにも恥かしく情ないとおもふことが度々ありますけどそんな時は笑ひにまぎらせて皆で笑ひます テルが自分に逃げる云って本氣出してテルをどこまでも追ひかけてけんかするんだからね たまには にはとりが御父さんさへ小屋には入って行きなさると追いかけるからと棒を持ってたゝき血が出たとよろこぶ人よ あさましいね でも人がいゝからでしよ 何も案ずることはないのよね これは焼いてね(三月十七日)
あら、祖母は「焼いてね」と書いてたんだ。それを取っておく母も、こうして公開する私も罰当たりだなあ。おばあちゃん、ごめん。でも、おばあちゃんというか当時の奥さまたちの苦労や「養われてるから」との思い、またおじいちゃんを理解しようとする冷静さなんか、今の人たちにもきっとわかるし、何かの参考にもなると思うんよ。