えらいもの見ちゃった
数日前なんだけど、まったく偶然のうっかりで、夕方テレビでやってる古いドラマの再放送を見た。これがもう、すみからすみまで歯が浮いてぼろぼろ落ちるような、えげつない学園物で、もちろん途中から見たのだが、いきなり熱血校長が小学五年生のクラスでいじめがあったのに激怒して教壇から「おれはおまえたちをなぐらない。なぜかと言うとおまえたちへの愛がおれの中で死んだからだ」と、全体から一言ずつから一部のすきもなく私の神経を逆なでするお言葉を発しておられた。
その後もすべてがその調子の展開で、いちいち言ってたら本ができそうないやらしい教師精神オンパレードで、ああ、これだから私は教師が嫌いだったんだ学校が嫌いだったんだと、あらためて再々再確認しまくる羽目になった。もうすぐ集中講義が始まって教壇に立たなきゃいけないのに、どうしよう。
いじめをやってた中心らしい女の子も、当然事情があるわけで、それでぐれてひねくれて、それが次第に心を開くという、これまた私が背筋から首すじから総毛立つ、おぞましい描写が続く。元校長で病気が末期の老人が、彼女と出会って、何とか救おうとして、彼女から大きなお世話だとかどうしてそんなに私にかまうのとか、これまた気持ち悪すぎる定番せりふをぶつけられると、その元校長がいわく「人間はねえ、年をとると人の世話が焼きたくなるんだよ」。
教師も嫌いな私だが、これは老人問題としても激昂したね。それ「人間」じゃねえから。あんた個人で、自分の趣味には責任とれよ。少なくとも私なんか、年取ればとるほど、もう周囲や世界の世話を焼くのにはうんざりで、老後と末期は自分のためにだけ使いたいって切望してるんだよ。てめえなんかといっしょにすんな、汚らわしい。
と、呪いながら見ていてアドレナリン出まくりで元気になったかもしれないが、ついでに「情けあるおのこ」を書くエネルギーにもなった、自分の原点を忘れていたのに気がついて、あらためて確認したね。私が人に優しく誠実でまじめで勉强もできて友だちも多くてユーモアもあって立派な非の打ち所のない子どもでいよう人間になろうと、日夜努力し刻苦勉励してきたのは、こういう元校長だの熱血校長だののいやらしいやつらに、さわられたくなかったからだよ。説教されたり弱み指摘されたりかまわれたり指導されたくなかったからだよ。だからそいつらの望みそうなことは、すべて前もってクリアして文句つけられないように生きてたんだよ私は。万一それでもうっかり欠点見つけられて指摘され指導されたら、速攻で反省して悔い改めて改善してハイさようならするようにしてた。とにかく、こういうやからの教育者としての使命感や情熱の餌食になるのだけは、まっぴらごめん。それが私の人生を構築してた。
思えば今も老化や体調不良の中で、私がせいぜいしゃんと明るく前向きに生きてるのは、職業は教師でこそないが(教師であることも多いが)、同じような精神のやつらから「落ちこまないで」「孤独じゃないわよ」「元気を出して」「明るい気持ちで」「負けないで」なんて利いた風なまぬけなセリフを絶対に言われたくないからというのだけが、もしかしたら理由じゃないかって気がしてきた。それが私を力づけ、無限のパワーを生み出している。あーあ、代わり映えしない人生ったらない。
今日は風がやたら強い。なのに、グラジオラスは折れもせず堂々と高々と風にゆられてる。折れたら切って花瓶に飾ろうと思ってるのに、その気配もない。おまえらほんとにグラジオラスか。怪しい。
そうそう、玄関の花瓶にさしたハツユキソウも、けっこうしゃんと変わりない。これは切り花として充分に使えるなあ。立派なもんだ。
今日はプーチンがこだわってたナチスドイツにソ連が勝利した戦勝記念日か。その日に戦果を自慢しようと、ウクライナにナチスも顔負けの暴虐をくり返したのだから、その頭と心のねじれ方にあきれてものが言えない。ナチスと戦った戦死者たちはきっと涙してるだろう。浮かばれないということばは、こういう時のためにあるとしか言いようがない。彼らのナチスドイツとの戦いの映画は、若い時にたくさん見た。彼らが夢見て命をかけた未来に、私もまた希望を抱いた。思い出すにつけても情けなくてくやしくてならない。そのくらいの気持ちをプーチンに対して抱く権利は私にだってあるだろう。