母と、母の母(13)
長崎の活水学院の寄宿舎(や下宿)にいた母と叔母に、田舎から祖母が出した手紙。久々に長いものにしようと選んだら、なかなかダイナミックな内容だった(笑)。
私は祖母とはずっと同じ家に暮らしていて尊敬しつつ愛していたし信頼もしていた。だがだからこそか、あまり長く話をしたことはない。ことばを交わさなくても理解し合っているような感覚に近かった。
逆に母とは毎晩ふとんの中で読んだ本から世界情勢、村の政治、日本の歴史、芸能ニュース、あらゆることを深夜から明け方までしゃべりまくっていた。ここで書いている、わが家の過去についての知識もほとんどが母から聞いた話である。
祖母の手紙にしばしば出る「江戸町」は、多分長崎の板坂家の本家だろう。あれだけしゃべりまくっていながら、母は離婚した父のこと、長崎の親戚のことをまったく話さなかった。特に避けていたのでもなく、他に話すことがいっぱいあって、それどころではなかったという感じだった。
そんな中でちらと聞いたのは、南京事件で、それまで経営していた大きな病院を捨てて一家が着のみ着のまま日本に戻った後、経済面やその他で親戚に頼っても冷淡にあしらわれたとのことで、祖母は苦労したらしいということだった。祖母自身はそれを口にはしなかったし、まあ親戚の方にも事情や言い分はあるだろう。ともかく祖父母は長崎の本家や親戚とほとんど交際はしなかったようだし、私もそちらの人たちのことはほぼ何も知らないままである。
母は長崎を愛していたし、ことあるごとに私たちが住んでいた大分の荒っぽさと比較してなつかしがっていた。しかし、この手紙を読むと、祖母はまたちがっていて、親戚への感情とも重なって手放しで長崎に親しんでいたわけではなかったようだ。手紙の内容は細かくはわからないが、母と叔母の姉妹の下宿先のことでいろいろ皆が心配しており、何だか大変そうだなと伝わってくる。そこで本家への祖母の不信も爆発しているといったところか。
しかし、これまた、それからの話が上海に行って新生活を始めたいとかいう計画になるのだから、スケールのどでかさにとまどう。死ぬまで田舎のつつましいおばあさんとして、ひっそり生きていた祖母の心には、常に大陸があり日本海があり、母以上に祖母もまた故郷や定住にこだわらない遊牧民の戦士みたいな精神を抱いていたのかもしれないと思い知らされる。私が舌を巻くのは、祖母がそれを持っていたからではない。それを封印したまま、特に不幸でもなく疲弊も腐敗もしないまま、死ぬまで無名の老女として大分の片田舎にすまして暮らしていたことだ。
ただ、こういう長い手紙を読むと、私や母に向かって、村の人たちや祖父についての日常を長々と物語のように聞かせてくれていた時の祖母の話しぶりを思い出しもする。他の手紙の多分時間に追われながら書いた、きびきびとした記述より、この一種だらだらとした語り部のようなテンポが、むしろ祖母の特徴だった。私も母も、それを大いに楽しんでいた。
そして、母がありとあらゆる話題を幼い子どもの私と共有し、戦友のように同志のようにすべてを打ち明け合っていたこと、漠然と母がそういう戦友もどき同志もどきの存在を貴重なものとしていると私もどこかで感じていたような関係は、実は祖母と母とがこうやって手紙で構築していたものと同じだったのかもしれないとも、今にして思い当たるのだ。私自身は結婚しなかったし子どももいない。しかしもしいたとしたら、同じような関係を私も作っていたような気がする。
「梅崎大佐」は梅崎卯之助という人(横須賀の人事課長か何かで昭和三十七年十二月一日に大佐になっている)がいるが、この人かどうかはわからない。少し詳しく調べたらつきとめられそうな気はするが。
一日の夕方下宿をかわった手紙を受け取りお父さんもお母さんもやつと安心しました 元も共によろこびました でもね お母さんが一日も早くあの日は柿を送ってやろうと金にたのんで買って居りました處 恰度 日の午后お父さんが高田に居らしたので金さんが今日送りましょといったので そうね では今の内にと大急ぎで発送したらあの手紙でしょ 勿論吉村の人等が引越し先きにまわしてはくれるだろうと思ふけど人はあてにならぬものですから届けも来ず又何の知らせもない時は行って見たらいゝね 少し重たくて困るでしょけど伊藤さんにも一ヅヽ分けたらいゝね 下宿のおばさんにも柿二ツみかんでも四ツ五ツ添へて上げたら何ふか知らん 南生ちやんと話合っていゝやうにし成さいね 今日(二日)江戸町のおばさんから柿のお禮と下宿の事で手紙が来たのよ この間吉村に行ったらあなた達は留守だったし二階に上げて貰らっておかねおばさんと下宿の事を話し例によって寄宿にかへるやうにと話されそれがいやならおばさんが病気でもされた時はお弁当はパンにして綾ちやんに手伝ひどもし今学期はをいて下さいとたのんだら おかねおばさん涙ほろほろ流して行く先きもきまらないのに出て行けの何のとそんなことがあるものですかと云ってなさったといふことでした 何ふして江戸町の人達はいつもいつもさっさと世話してくれないのでしょかね 何事によらず他人の嫁の世話などわが事のやうにして一心になるくせに あなた達の事などよそごとのやうにしか思って居ないのね お金でもやった時ばかりちやほやいってそのほかの時はほんとに有難いと思ふような世話をしてくれたことがないね やはり親しい友や気の利いた他人の方がましよ お母さんはいつも早くあなた方が卒業していやな長崎の地を引揚げてかへるのを何よりも待ってます 早く長崎と縁を切り度いのです 幸ひ南生子は四月迄だからいくらか気楽になります
今度梅崎さんも大佐に進級され横須賀の人事□□から□主任になられましたので一日には早速祝電を上げてをきました 今度の戦争には御父さんの意見が梅崎さん迄四度出されましたがどれもどれも用ひられまして御父さんも随分よろこんで居られます 一 海上封鎖 二 上海の裏から上陸して□□し上海をくづした件 三 戦争後は日本が管理する この一番好い問題ばかりですからね 何とかして梅崎さんあたりと一處になって上海に行き度いものと思って居ります 御父さんが江戸町にも一寸行って御覧らんってよ そして世話して貰らった伊藤(「牧師は」を抹消)さんの御父さんはお母さんのお友達って云ひなさいよ 何の世話もしてくれない人達には決して何の遠慮もいりませんよ 何てたのみ甲斐のない女でしよ あのおばさんは私とは何に彼につけて性が合はないのです 今はこうして遠くにはなれてますから腹の立つことも少ないですがそれでもやはりいやです その点でも上海に行って了ひ度いのです その内下宿料のことなどそれとなく伊藤さんにでも尋ねてをき成さいね 吉村にも三十五円送りました それで沢山でしょ
十二月となったので早速冬らしい風が吹き出しました 二人共用心しなさい 今年は炭が少したかいからね 下宿のおばさんとなり伊藤さんとなり相談して買ひ成さいね
返事かたがた
母より
二人へ
(十二月二日)
写真は祖父が病院で使っていた器具。ハンコのようなのは、考古学好きの友人が「あ、三葉虫」とまちがえて、まあわからんでもないが、これは人体胸部の略図で、これをカルテに捺して、患部を記入していたのです。