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母と、母の母(18)

この手紙自体はいつもと同じ雰囲気で、どうってものではないのだけれど、私個人としては読んでいると、いろいろと、ほろ苦くて、悲しくて、つらい。祖母がここでていねいに書いている、台所のそばにあった井戸は私の大きくなるまでずっと存在していて、そばのポンプからは冷たい水が出た。何度か水さらいをして、中に近所の人が入って作業をしていたのも覚えている。

手前を母が歩いている(写真を撮っている私の影もある)、この写真の正面奥に見えるポンプは、私の知る限りでは二代目で、その前のはもっと黒っぽくてちょっと小さかった。写真では見えにくいかもしれないけれど、まさに、この位置にずっとあった。
でも祖父母も亡くなり、私が家を離れて、母が一人で暮らしていた時期に、台所をリフォームしたとき、母はいやがる大工さんたちに頼んで、この井戸をつぶさせ、台所のすみに古くからあって、何度か正月の餅もついたこともある石臼を、その井戸の中に投げ込ませてしまった。

リフォーム自体は位置的に、この井戸をつぶさなくてもまったく大丈夫だったのに、母がなぜそうしたのかはいまだにわからない。母はときどきこういう狂気に近い凶暴さを発揮する人で、その血は多分私にも流れているのだろう。
母は、この祖母の手紙を思い出さなかったのだろうかと思う。こうやって大切に作られて守られたあの家の水場をほろぼすことに何の恐れも感じなかったのだろうか。家の庭の木や石や、あれこれが変化するとき、私は毎回、家を守ってくれていた精霊たちが飛び去って行く翼の羽音を耳にする思いがする。母はその後もかなり長くその家で暮らしたし、特に不幸な死に方もしたわけではないけれど、仮にその終焉に満たされない淋しさや悲しみがあったとしても、私はちっともかわいそうには思わない。祖母や一家があれだけ守った井戸をあそこまで完膚なきまでに滅ぼしたからには、母にだってそのくらいの覚悟はあってしかるべきだとしか思えない。
 母は何を葬りたかったのだろう。何を消したかったのだろう。祖父や祖母との確執か。自分の人生か。めったに帰省することもなくなっていた私への不満か。そうならば、あの井戸を殺したのは結局この私でもある。少なくとも守れなかった責任は私にもあるだろう。

井戸が潰されたあとも、ポンプだけはしばらく残っていた。母は、それも知りあいの誰かにやってしまったが、それは私が烈火のように怒って取り戻させ、場所はちがうが、新しく母の隠居所として建てた隣家の庭先に移設して今もある。埋められた地下の水脈もまだ消えていないのなら、いつか再び地上によみがえることがあるのだろうか。それをどこかで夢見て祈る自分がいる。

その母の隠居所として建てた家は、よい方に買っていただいて、ていねいに大事に住んでいただいている。だが、その敷地に隣接していた私の書庫の貴重な資料や大切な本や思い出深い手紙その他の数々を、私を喜ばせようと思ってご自分たちの判断で大量に破壊し破棄して処分してしまったのも、そのご一家でもある。詳しくは電子書籍で発売中の「断捨離停車駅」「断捨離飛行艇」をごらんいただきたい。私の老後や晩年の計画や予定のかなりの部分は、このことによって抹消された。おそらくここ数年の体調不良や精神不安定も、これが原因なのだろうと私はどこやら他人事のように冷静に判断している。

捨てられたものの中には、叔母(南生子)が大切に保管していた祖母や家族からの手紙もあった。処分された方々は几帳面でいらした分、やることが徹底していて、叔母がていねいに箱に入れて上書きをしていた、その箱もすべて破って解体しておられた。ゴミ袋に突っ込まれていたそれらを、私は見る目も触れる手も焼けただれる思いで、取り出して、保管し直した。
祖母がこの手紙で書いているように、母と同じぐらいの量の手紙が叔母あてにも書かれていたはずだ。それはどこかの廃品業者の古紙の山の中で、溶かされて永遠に消えた。亡くなった叔母のもとにそれは届いて叔母はあの世で「大丈夫よ、心配しないで、ようこちゃん」と笑いながら読み直しているという明るい空想と、自分が死んだ後に叔母に会ったらこのことを何と言ってわびようかと思うと、二百歳かそれ以上まで生きても死にたくないという暗い決意と、その両方に今でも私は引き裂かれ、何年過ぎてもその苦痛は少しも弱まる気配がない。

母あての手紙がたまたまこうして無事に残った。こうやって翻刻する一文字一文字に私は救われ慰められる。まあ、「アンネの日記」は残ったけど、多分それ以上に豊かな内容だったのではと言われる姉のマルゴット(母はいつも、このマルゴットの写真が好きで、きれいなお姉さんだとほめていた)の日記も永遠に失われているのだから、世の中そんなもんさというあきらめも、こういう作業を続ける中で、何とか少しは生まれて来る。

手紙の中の「竹○」は「ちくわ」のこと。最後に近く「ぼつぼつ持って来る」とあるのは、前にも出て来た、村の人たちの薬代のことだろう。米もよく出来た年だから支払いも滞らないだろうと祖母は期待している。「帳簿の整理」は後に母の仕事になるが、この時はまだ祖母がやっていた、医院の事務仕事であろう。

試験は済みましたか 毎日ラヂオで天気予報を聞いてると何ふも長崎はこゝよりうんと寒いやうにあるので二人共風引かねばいゝがと祈って居ります 植田さん何んな顔してますか 最う少し注意して下さいと云ってやったのよ
荒木から果してまあ二俵送ってと云って来たので直ぐ送りました 今度は代金を拂ふさうです そして竹○カマボコそれに桃饅頭一ツ送って来たのよ かわいらしいじやないの 内も十三日夜 兄さんが立って後は淋しくなりましたが十四日朝から奥田がひよこり来てあの御飯食べる室の障子に硝子を入れると仕事に取りかゝりましてあちこち小修繕を三日間かゝってしましたので淋しさも忘れていそがしいでした 井も廿四日が一番日が好いそうですから堀ることにしまして昨十三日に今度堀る□所あの大きなみかんの木の下です あそこに青竹四本立てなはをはりめぐらしお酒と塩とを上げて清はらひの式丈けはすませました この内で水さへよく成れば最う何もすることはありませんね
今日は日曜で元は又中津行して本や帽子シヤツなど買って来ました 夜は中津の好い肉で鋤焼して食べました つらかった寒稽古も後三日となりました 四時前から起きるのは仲々ねむくてネ
其後南生子も変った事もないでしよ 二三日前くわしい手紙をやりましたからお母さんも直ぐに返事してをきました 最う何事もあるまいとはおもってますがお母さんは思出しては気になり気になりします 何も内のことは案じないで二人で助けつ助られつして元気で居らっしゃいよ
メガネも買ったでしよね 決して不自由しないで入るものは買って楽しい気分で勉强しなさいよ 御父さんもあのかんしやくさへ出なければまことにいゝ人ですからふだんはとてもいゝのよ これから今年中の帳簿の調べ それがすめばぼつぼつ持ってくるしそろそろ忙わしくなります でも本年は三年目で大分馴れましたので是までより早々さばけるでしよ お米もよく出来てますから仕拂らひも早くすることでしよとおもってます
では二人共大事に 又かきます
                            母
  澪子様

 (一月十八日)

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カツジ猫