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母と、母の母(19)

長崎の活水学院にいた母と叔母に、祖母が出した手紙の数々をランダムに紹介しています。しばらく間があいたせいか、ちょっと読めない文字が多いかなあ。
祖父の開いていた田舎の医院には、小さな入院病棟もあった。そこで亡くなる人もいたのだとわかる。二十五歳で亡くなったお寺の一人息子に祖母は悲しみを感じている。

叔母の進路について「家政学なんて金だして学ぶものじゃない」と祖母は断言しているが、家事や家庭科に対する評価は私の子どものころでもまだ低かった気がするから無理もないかと思う一方、こんな昔に女性は学識を身につけていれば何とかなるという祖母の確固たる信念もすごい。この時代これがどのくらい普通だったのか特殊だったのか知りたい気がする。

最後の方で金が寄ると書かれているのは、前にも何度かあったように、掛売りになっていた薬代を患者さんが払いに来る「薬礼びらき」の時期のことをさしている。多額の収入は隣町の豊後高田の銀行に預金しに行っていたのだろう。

最後の最後にちらっと出て来る叔父の板坂元(母の弟、一家の末っ子)の画のこととは、これも前に出たが、叔父の学校の図画の宿題を母が描いてやっていた件の連絡だろう。字が読めないのがくやしいが、多分、図画の課題の名とか、何かそんなものを連絡したのだと思う。暇々によろしくと言うのは、叔父の絵の代筆を頼むということか。一家をあげて、かわいい末息子のズルに協力してたのもどうかと思うけどね(笑)。

写真は、そんな母の絵の一枚。左下に叔父のサインが入っている。

今日カステーラが届きました □□さんは亡くなって昨日が御葬式でしたよ でも札幌のよし子姉方から御正月過ぎに北海道名物の御□が送って来てましたから何か内からも送らねばと云ひってましたが何とて送るものもなくてそのまゝに成ってましたら之を送ることにしました ありがたう ほんとにお世話だったでしょ あの内に長いこと入院してたお寺の坊っちやんたった一人子息だったのよ あの人も亡くなりました やはり弱い人でしたからこのひどい寒さがさわったのだそうです 廿五で一人むすこで死んで了ふのはゆく人ものこる人も仲々の大きい悲しみですね 南生ちやんから四学年に成ってから進む甲乙組に付相談して来ましたから矢張り乙組にするやうに返事してをきました 家政なんてわざわざ時間と金を費してやる程のものではないでしょとおもひます 学問して智識をうんとつけてかしこくさへなって居ればいくらでも應用が出来ることです 学問はそんな應用など出来ませんからね 世の中に出て学識もない女なんて我まゝばかり云って無ちやなことがあまりに多いですから金と時間がゆるす限りはウンと精神をみがいてをくことですね 修養がなければどんどん進む世の中にとりのこされがちで自分自身もつまらなくてくち果てねばなりませんからね
こゝは旧お正月で日々忙はしく過して居ります 金も割によく寄りますよ 昨日高田の合同に預けて来ました この一日が薬礼びらきですからそれがすまないと一寸息つく暇もない位です このひどい寒もこゝ暫らくの處でしょからよく火をおこして冷えないやうに勉強成さいね 内は親子三人共元気です 元も寒稽古の皆勤賞ども貰らひ日々機嫌よく通学して居ます 画□は届きましたでしょ 暇々に何卒よろしくね   母ゟ
  澪子様
     一月廿五日

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カツジ猫