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母と、母の母(5)

母が長崎の活水学院の寄宿舎にいたころ、祖母が出した手紙です。順不同で紹介しています。手紙の中で「元」とあるのは国文学者の板坂元。母はよく私に「恋人のように仲がいい姉弟だった」と言っていました。とは言え、布団の中で本を読んでいた弟の本の上に自分の陰毛をむしってまきちらして邪魔をし、弟は「もう」と言いながらそれを払って本を読みつづけていたらしいから、たいがいバンカラな姉だったようです。
二人は六大学野球に熱を上げ(母が洗脳したのでしょう)、ともに縁もゆかりもないのに母は慶応、元は早稲田のファンでした。早慶戦で慶応が勝つと、母は門の横の木に上って、学校から帰って来た弟に向かって「元ちゃん、勝ったよ勝ったよ、慶応勝ったよ」と叫んで教え、くやしがる元が木の下から、「誰それのピッチングはどうだった、打撃は、守備は」と聞くのを、「ああ、誰それなんか話にならなかった」などとあざ笑うのだそうです。

この手紙だけ読むと、そんな荒っぽさはわかりませんから、いかにも幸せで上品な家庭に見えます。実際幸福な家族だったのでしょう。元が野球の本を買ってやるという父母の親切を拒否しているのも、本が問題なのではなく、姉の便りがないことに怒っているのだと思います。

私は祖母がこの手紙を書いていた同じ家で、ずっと後の時代、祖父母と母(父とは離婚していた)と四人で高校まで暮らしました。とても幸せで恵まれた日々だったと思っています。しかし、祖母の手紙の数々を読んでいて初めて気づいたのは、私が親戚の従姉たちや近所の友だちといっしょに心ゆくまで味わっていた幸福な家庭は、実は落日の最後の残照のようなもので、わが家の最も充実して輝いていた日々はもう終わっていたのだなという、悲しみや不幸ではないですが、どこか哀愁にみちた発見でした。四人の子どもと若い父母の忙しい、にぎやかな活気と希望にあふれた毎日。それが過去となった淋しい時代を、最高の美酒のように味わって酔っていた自分が、他人のように、なつかしく、いとおしく、あらためて当時の風景や情景が、世紀末の絵巻のように新しい色彩を帯びてよみがえって来ます。

手紙の終わりの方で出てくる看護婦さんの話は、祖父の開いていた医院のこと。「大商の児玉」は大分商業高校の児玉利一選手のこと、「志手」は後に同校の監督もつとめた志手清彦選手でしょうか。子どもたちのせいで、祖母も当時には珍しく野球のニュースもチェックしていたようです。大分の選手の話なので長崎の新聞には載らないから母に教えているのでしょう。

御手紙有がたう 苦しかった試験後には楽しいことが色々とあるでしょね 寄宿舎なんてそうして自分が居る時は学校のトリコに成ったやうできゆうくつできゆうくつで仕方がないつまらぬ生活であるけれど世に出て見るとうるわしい楽しい園であったとつくづくと今におもひ出となります せいぜい楽しくすることよね 時に内の元ちやんは野球って云ふとラヂオで聞くときも新聞で見る時も雑誌を見る時も澪子姉さんはこすいこすいとぷんぷん云っておこるのよ それでね 何ふしたのときいて見ると何でも野球の雑誌ではないかしらん それを元に送るやうに約束してるでしよ それに一つも送ってやらんとおもひ出しておこるからお母さんが買ってやろうと云ったらこっちにないと云ふからね 何處かある處にたのんで送らせたらと云ふけれどそれでもいかんそうで御父さんも澪子姉さんが約束はしたろうけれど小使銭がないようになったのたい 御父さんが金をやるからお前買ひ成さいとおっしゃるけれど買はんでもいゝとかでやはり一人でおこってるの 本か雑誌か知らぬけれどお金はいくら要るの お母さんがこっそりと送るから買って送って下さいね 月謝も届いたでしょとおもひます 土曜が来たら日曜と重ったりして大そう遅く成ってすみませんでした 内ではあの村上と云ふ一番小さかった看護婦を別府の武田といふ撫順時代の友達の医院にこの十日にやることになりましたのでその後に久田の友人で東京にて看護婦してた人を雇ふことになりました 八日頃久田も一度是非来て見度いからと多分同道で来るだろうとおもって居ります 庭のみかんも色づきました 大商の児玉は明大と定ったとか今日の新聞に出てます 志手もそうなるだろうと書きそへてありましたよ 又上げましょ
                         母より
  澪子様

十一月五日

写真は野球マニアの母が自分で筆箱に慶応の模様を刻んだもの。当時はフィギュアとかグッズとかなかったですから、こうして手作りしたのでしょうが、なかなか巧みでびっくりします。

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カツジ猫