泥を塗る
朝から雨がふってたから水まきはしなくていいし、家に閉じこもっていたのですが、夕方買い物に行こうと外に出たら、ぎゃあ、寒い!
何かあれよね、気温が数度下がっただけでも、ちがう世の中になっちまったような気がする。
大急ぎでネギとヨーグルトと鶏肉を買って、逃げ帰って来ました。
コミック「はだしのゲン」をぼちぼち読んでます。なぜか合わせて最近買った文庫本の北杜夫「夜と霧の隅で」の文庫本も読んでいて、頭の中が妙に昭和二十年代にスキップしてる。
昔、実家で買っていた「文藝春秋」が私が根城にしていた二階のお座敷の床の間に積み上げられていて、芥川賞や直木賞の受賞作も載っていて、子どもの私が初めてそれを読んだのが「忍ぶ川」とか「飼育」とか、この「夜と霧の隅で」とかで、だから筋なんて覚えてないのに、冒頭のトラックが病院に来て、障害のある子どもたちを積んで行く場面を、その座敷の床の間の床柱や違い棚と重なるように二重映しで変にはっきり覚えてるんだよねえ。まるで自分の実際の体験みたいに。
そして、こういうの読んでると、変なこと考えてしまうんだけど、被爆国の賞味期限って、どのくらいもつのかな。
そんなこと思ってしまうのは、もちろんイスラエルがガザに加えつづけている、とんでもない爆撃や攻撃の数々を見聞きするたびに、私が反射的に考えてしまう、「ホロコーストの被害者っていう貯金も、そろそろ底をつきはじめてるってわかっとんのかネタニヤフ」って捨て台詞に由来すんだけど。ほんとに過去に、泥を塗ってる。
もちろん、これはまちがいです。被爆国にもホロコーストにも賞味期限なんか絶対にありません。時効もない。あってはならない。
それでもそれでもそれでもですよ。「はだしのゲン」とか読むにつけても、この怒りや決意を保ちつづけて、平和や民主主義を守るには、いつまでも、そのことに甘えてぼうっとしてたら、風化もするし効果もなくなると思うのね。被害者としての立場や権利を守るなら、それを無駄にしないように、世界や未来に向かって不断に訴え続け、世界の正義と良心の先頭に立ち続けてないといけないんですよ。でなきゃ、飽きられるし忘れられる。それは人類にとっても不幸なことで、だから怠けちゃいけないんですよ、被害者は。もちろん私もその中の一人です。
被災地で、ペットを保護する動物避難の場所が作られ始めているようで、少しだけ安心する。しかし、まだ水道が復旧しない地域が多いことなど、いろいろ信じられない。
体調がぱっとしなくて、この数年間つい、お茶を飲まないでいたら、ずいぶんお茶がたまってしまった。最近またお茶を飲み始めたら、どのお茶も実にうまい。少しずつだが確実に減って行ってるのがうれしい。
あっ、四月からの授業のシラバスもそろそろ作らなきゃならないんだった。去年と同じでもいいのだが、何か新機軸を出したいな。ささやかにでも、アイディアをひねり出さないと。
そう言えば、昨日の「関取名勝図会」、一応コーナーは作ったけど、どのくらいのペースで進めるかな。せいぜい、がんばってみますね。
とか言ってたら、なぜかリンクができない。もう少しお待ち下さいませ。