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禁断の発想

幕末に関心の深い人なら、わりと知っているかもしれないが、大阪の中之島図書館に「地震津波末代噺之種(じしんつなみまつだいはなしのたね)」という本が何冊かある。残念ながら活字にはなっていないから、草仮名が読めないとだめだが、これは幕末に起こった大地震のときに出たかわら版の刷りものをとじ合わせて、一冊の本にしたもので、似たようなものが数点ある。全国にはもっとあるだろう。

それを見ると、ちょうど今、テレビで報道番組をやっているのと同じような内容で、どこそこの町で家が何軒倒れて、死者が何人出たとか、どこの鳥居が倒れたとか、船がこわれてつぶれたとか、そういう情報が時には挿絵まじりで書いてある。私はこういうものも、大変ゆるやかに広くとらえれば紀行文(ルポルタージュという意味で)に入るのではないかと考え、「江戸を歩く」(葦書房)という昔書いた本で内容を紹介した。と言っても、アマゾンで見ても、どうやらこの本は絶版のようだから、宣伝をしていることにはならないだろう。まあ、宣伝したっていいのだが。

しかし、昔初めて私がこの本を読んだとき、非常に驚いたのは、単なる報道ではなく、明らかに被災地で配られているはずなのに、恐ろしいと言うしかないほど、ふざけた内容のものがいくつもあったからだ。
浄瑠璃や歌舞伎の名セリフをパロディにして、被害の様子をつづる文章などはまだいい方で、「地震津波もちづくし」と題して、「地しんで、しりもち」「にげるによわる、子もち」「こけた燈籠をなおす、力もち」「まんぞくにねられん、かしわもち(避難所の様子だろう)」など並べて「くずれかけた家は、菱もち」「ゆるたびに、仮小屋へ、おかがみ」としめくくるのは、読んでいて、目をみはってしまう。

さらにもう、きわめつきは、料理屋のメニューをまねて、「地震津波精進料理献立」と題して、見た目も料理の品書風にして、「津浪で子を死なし、うら[めし]」「道頓堀は死人のあへまぜ[なます]」「くわしいことは手紙で[汁]」([ ]の中は大きな字になっている)などと書いていることだ。書く方も読む方も被災した人々で、これを読んで笑っていたのだとしたら、もう胸がどきどきしてしまう。

これが幕末という時代のせいか、大阪という土地のせいか、庶民のたくましさなのかはわからない。今また、どきどきしながら私がこの本を紹介したのは、同じ禁断の発想、非常識な発言でも、未曾有の災害をしかも当事者ではない人が「天罰」と表現する、卑屈さ、いじましさ、ちっぽけさに比べて、被害にあった当事者たちが、川にあふれた死体(家族も知人もいただろう)を、なますのあえまぜと笑い飛ばす精神の強烈さと崇高さを並べて見てほしかったからだ。私自身が、ここまで果敢な冗談は思いつけもしないし、正直、目にしただけで恐い。このような言葉の前で、自分の小ささを自覚する。心を切り裂かれて血がほとばしる衝撃がある。それは、巨大な災害や悲劇にひよわな人間が対決する、決死の武器なのではないか。

ニュースで見ていても、被災者の方々の言葉も表情もおだやかであたたかい。つつましく暮らしていた幸福な村や町が、根こそぎ破壊されたのだと痛いほど感じる。おそらく、このかわら版のような表現や戦い方は、今回の被災者の方々はなさるまい。それは地域や時代や、他のさまざまな状況によるものだろう。だが、だからこそ、そのような人たちに向かって、そのような人たちを思いやって傷ついている私もふくめた大勢の人たちにむかって発された、「天罰」という過激なようで陳腐きわまる言葉が私は許せない。

禁断の発言は、その過激さゆえに、時に魅力を持つ。だが同じように人をおとしめ傷つける表現の中にも、質のよしあしがあり、本物とにせものがある。だから私は「天罰」という表現に「死人のあえまぜのなます」を投げつける。同じぐらい下劣で品がなくても、正しい衝撃を与えるものを私は選びたい。

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カツジ猫