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私の処女作(笑)

「虎とバット」をちびちび読んでいます。なかなかまじめな大論文で、おかげでなかなか進みません。冒頭の分析が、まあタイガースなら当然ですが、観客席やファンの応援の役割で、今の無観客試合の現状を思うと、別の意味で感慨があります。

今日はいい天気ですが、天気予報の通り、少し寒くて風が冷たいです。冷蔵庫の中を整理して、簡単な料理ばかり五六品作ったので、しばらく食事には困らなさそう。

田舎の書庫においていた資料ががさっとなくなったので、こちらの家においてある資料もいつどうなるかわからないと思い、整理を急いでいます。
昨日は母のノートが見つかりました。そんなに育児熱心な方ではなかったと思うのですが、私が書いた習字や図画は皆仇のように保存していて、小さいノートに私の三歳のころの落書きを貼り付けていたのには恐れ入りました。クリックしたら大きくなるから母が鉛筆で書いたメモも見えます。「昭和24年5月8日夜」とあって、祖父母と暮らしていた大きな古い家の夜のしじまが、ふとよみがえるようです。

ただのマルかと思ったら、「リンゴ」ですって。そう言えば上にちょっと、しんのようなものが。私がそう言いながら描いたのでしょうね。これが私の処女作かな。
左は6月15日の「あひる」。母はなぜか「あびる」と書いています。私がそう発音していたのかしらん。

こういうのも多分、田舎の書庫にあった分は、かなり処分されてしまったのだと思います。それでもマジで私があまり、というか全然処分した人に対して怒りを感じていないのは、どういうのかな、すごく、すごく、変なのですけど、こういうものの数々が私にとってどういうものか気づかないで、処分してしまうという人たちに、私は本当にあまり腹が立たないのです。

ここでも何度か書きましたが、私は自分の論文や小説やエッセイやこのブログを読んでもらうのはうれしいし、面白がったり楽しんだり役立ててくれるのはもっとうれしいし、感想をいただいてももちろんうれしいのですが、私自身に関心を抱いたり興味を持たれたりするのは、ちっとも好きではないのですね。ほんっともう、逆立ちして高速回転してもなれるわけないけど、俳優とかアスリートとかにならないでよかったと、つくづく思う。
言いかえれば、好きな役者やスポーツ選手が、不倫しようが殺人を犯そうが、私は全然気にならない。ただし、芸やプレイがつまらなくなり好みに合わなくなったら、どんなに聖人君子でも多分興味はまったく失う。

人とつきあうのも、もちろん嫌いじゃない。たがいのことを話すのも全然もう嫌いじゃない。でも、そうやって相手に話す情報は、たがいにきっちり管理してるつもりでいるんですよ、私としては。
長年つきあった、多分無二の親友も、たがいの個人的生活や家族関係や交友関係はほとんど知らない。よく行くお店の内情も、状況も、まったくと言っていいほど知りません。知るのがいやなわけじゃない。知っても別にかまわない。でも、そういうこと何も知らなくても相手のことは多分わかる。

自分のことを知られるのが、いやなんじゃない。恐いんでもない。どうせわからないことを、わからないままに見て中途半端に理解したり解釈されたりするのが困るんです。わりと誰にもわかるように、あんたにもわかることばで通訳できるように、こっちは考えてるんだから、それまで待っといてという感じかな。

この「いたさかランド」もいわばそうで、なるべく人にわかるように自分の考えや心理を表現してるつもりではあるけど、これに倍する「まだ説明できない世界」が、どろどろぐしゃぐしゃ、マグマのように渦巻いてるんですよ、私の中にはいつもずっと。
死ぬまでそれが説明できるようになるとは、はなから思ってませんけどね。できるだけはしとこうかなというぐらいで。

いやさ、書いてて不安になるけど、誰でもそうじゃないんですかね? 皆もそうじゃないんですかね? わかりきったこと書くなバカとか、かなりの人が思ってるとかないよね?

ときどき私の書くものや言ったことへの反応で、「わあ、ものすごく私って、カルクて陽気で楽しく生きてて、何を言ってもかまわないと思われてるな」と驚くことがよくあります。ものすごく真剣に考えて語ったことでも、びっくりするほど単純な冗談と受けとめられてしまう。
それでも別にいいけれど、ということは、そういう反応する人は、私の未整理な部分をチラ見しても、あーもう言っちゃうと、自分の容量の範囲だけで、面白がったり恐がったり私の何かを知ったような気になったりしてしまうだろうと推測されるわけでして、それってやっっぱり気持ちが悪いし、いろいろ気の毒じゃないですか。そういう人間だってことを、それとなく天下に公開してるわけでもあることだし(笑)。

今回の場合、片づけ過ぎてしまった、その人は、私を喜ばせよう、きれいにしようと思われて徹底的に物を処分したわけで、私自身への関心とか興味とかでなさったわけではないのですよ。もちろん私を好いて下さっていて、信頼もして下さっていたけれど、そういう私への興味はなかった。それがとてもよくわかるし、だから私の気分は非常にある意味さわやかなんです。

そりゃ、まったく理解してないのに、理解できると思って処分してしまった、という言い方もできますよ。私のことを何も知らないのに、私に不要だと思って処分したというのは、究極の、私のことを中途半端にしか知らなかったからだという言い方もできますよ。
だけど、理屈じゃないんですよね、もうこうなったら(笑)。何にしろ、こうなった結果について、非常に困ってはいるし、心を痛めてはいても、私に不快感はない。
むしろ、これだけ複雑でややこしい私の心理を、わかったつもりになって、自分のものさしで理解しようとする人の方が、よっぽど気に食わない。わがままで、すみません(笑)。

もう大昔のことでしたけど、(私が頼んだのじゃなく、自分から申し出て)私の引っ越しの手伝いに来た人が、仕事そっちのけで、私のノートか手紙か何かに読みふけっていました。そもそもそんなこと私の目の前でするのが、どんなに非常識で礼儀知らずなことであるかもわかっていない人ですが、一応そこはとがめずに、「ちょっと、そんなことしてないで仕事してよ」と私が言うと「だって、面白いんだもーん」と甘えた口調で返しました。
多分、私はそこでそいつの頭をはたいたんじゃないかと思いますが、その後その人、片づけながらぐしゅぐしゅ泣いていたような気がします。
私も若かったですけどね、たかが人間相手に殺意を感じたことは、生涯であれがただの一度だったかもしれないですよ(笑)。

私が一番いやなのは、そういう人なんですよね。今回の場合、私のものをいろいろ見ても、結局は私にとって、それがどういうものかわからずに捨ててしまったわけでしょう。そのことに私はものすごく気持ちの良さを感じるわけです。絶対に不愉快にはなりません。

いや、我ながら、まるでうまく説明できていないよね。もう少し考えてみます。

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カツジ猫