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私の宿題(続き、これでおしまい)。

◇私が「八犬伝」の八犬士の中で誰が一番好きかというと、さんざんもったいぶった割りにはベタで気がひけますが犬飼現八です。ちょっとそんなこと言ってるわりに、この字でよかったっけか。
当てた学生は多分一人か二人だったけど、その理由も「たしか先生は、『この人を児童文学ではあまりカッコよく書かない時もあるけど、それはまちがってると思う』とかおっしゃってたから」というのを書いてた人がいましたが、結論は合っててもその理由はまちがいです(笑)。私は自分の好きな人物がカッコよく描かれてないからと言って、まちがいだなどという私情のまじった読み方はしないの。よく覚えておいて(笑)。

まちがいと言ったのは、私の好みとは関係なく、この話の中で現八は信乃やひょっとしたら毛野以上に堂々とカッコよい派手なポジションにすえられている人で、そりゃもう八犬伝と言えば芳流閣の決闘と言われるぐらいの名場面で信乃と対決する人であることからも、彼がそういう存在なのはみえみえですが、行動派の警察官で軍人で庶民派で前向きで健康的でバランスがとれていて、主人公の華やかなライバルという点じゃ「巨人の星」なら花形満の役柄ですから、まあそうですね、私が好きになるようなタイプじゃないですね、どう考えても。
あ、でも花形君は好きでしたけどね。アーサー王物語ではガウェインが好きだったし、あんまり私の好みも一貫してはいないわなあ。
とにかく、この物語の中では明らかに馬琴はそういう人として彼を描いているんですから、映画でも漫画でもドラマでも、この人の役はそういう風にしとかないと八人のバランスが悪くなっちゃうんですってば。そういう点で私は彼を地味に描いたりちょっと変人にしたりするのは、この物語の魅力があまりよくわかっとらん証拠だと、児童文学や映画を見る時の一つのバロメーターにしてるんだよね。
もちろん、翻案者が自分の好みを十二分に発揮して確信犯で人物像を変えるのは、それはそれでいいんですけどね。でもどっちかというと、やっぱり原作の基本は押さえておいてはほしいなあ、どことなく。

◇まあ子どもの頃の私は、案外好みもまっとうで正統派だったのかもしれないよなあ。初めて読んだの(山手樹一郎の講談社名作全集で)小学生の時だったし。「主人公のライバル」「敵の中の味方」というあたりが、きっと好きだった理由でしょう。
でも、もう一つ、すごくバカな理由だけど大きいのは私、現八に恩があるんだよね、子ども時代に。
私は基本的に臆病な子で、暗闇や夜道が大嫌いでした。まあ好きな時もあったんだけど、何かの漫画や映画や小説で恐い怪物のこととか読むと、ずっとそれがそのへんにいるようで、マジで本当に恐かった。今でも覚えていますけど、手塚治虫のどの漫画だったかに出てくる「ガビラ」ってバカバカしい名前の宇宙からの侵入者で、ヒトデみたいな軟体動物がいて、これはもうものすごく恐かった。筋なんかまったく覚えてないのですが、それに第一あんなもののどこがいったい恐かったのやら、今となってはナゾですね。

手塚治虫の漫画だから、絵がおどろおどろしかったわけでも何でもなく、そんなにショッキングな場面があったわけでもない。たしかガビラは、東京かどっかの大都会で、大きなビルの時計台に一度現れて、触手ではりついて本人(?)は意図したわけではないだろうけど、時計の針を押さえてとめてるんですよ。でもって、下から見てた警官が「どうして時計が狂ってるんだろう、何があの針を押さえてるんだろう」って、目をこらしている内に、はっと「そもそも自分がなぜここにいるかというと、ガビラの警戒をしてるわけで、じゃあれこそがガビラだ」とパニックになるんですけど、こうして書いてても一向に恐いと思えないのに、そういう場面のひとつひとつが、夢に出そうに無気味でした。
ガビラはかなり長いこと、私の恐怖の対象でしたが、他にもしょうもない雑誌の小説に出てきたミイラの化け物とかいろんなものが、夜道を歩くときによく私をびびらせていました。田舎の夜道って本当に真っ暗で見渡す限り誰もいなかったりするし。

◇それで、そんな時よく思い出してたのが、庚申山の夜の山道で化け猫に会う現八のことだったんですよ。
あそこも「八犬伝」の中の名場面で、しんしんと更けていく深山の風景、月光に浮かび上がる巨大な岩石、その中から呼びかける死者の声、もうどれもこれもが本当に神秘的で魅惑的で美しい。芳流閣の決闘もさることながら、あんな美しい夢幻的な場面の単独主役をもらってる現八なんて、本当に作者に愛されてるんだなあとしか思えません。

本来かなり恐いはずのあの場面が、とことん胸をはずませる楽しさと美しさに満ちているのは、剛胆で勇敢で化け猫でも魑魅魍魎でもおよそ恐れることのない、そしてまた、それに見合っただけの絶対的な戦闘能力がある現八があそこの中心にずっといてくれるからです。茶屋の主人から、化け猫の話を聞いても全然気にしないで、夜道を一人でずんずん進んで、しかも「13日の金曜日」とかとちがって、そういう地元の人の忠告を無視してひどい目にあうんでもなくて、平気で化け物と対決し、妖しい幽霊実は悲しい被害者の訴えを聞いてあげる現八の、とことん現実的で健康的で合理的で行動的なその魅力は、馬琴が理想とした勇士の姿であるとともに、江戸時代のたくましさと明るさの象徴にさえも見えるのです。

茶屋の主人に「危ないから」と売りつけられた半弓と矢を持って彼は歩いて行くのですが(実際にそれで化け猫の片目を射る)、次第にあたりが暗くなり深い深い山の中で、たった一人歩きながら彼がひとりごちるのは「弓矢よりたいまつを買って来るんだった」。もう何か大好きです、その何にも恐がってないぼやき方が。
で、私は夜道や何かで恐いとき、いつもその場面を思い出していました。そして現八の気分になると、見知らぬ道も暗い夜も、いっぺんに何だか謎めいてはいるけれど、魅力的な不思議な夢の世界のように見えて来ました。怪物がいても化け物がいても、そんなもの大したことないという気分になれました。
恐怖は恐怖を呼んで、限りなく増幅させます。でも現八と彼の歩く庚申山の世界を思うと、その恐怖の増幅は止まりました。誰かに救われるのじゃなく、守られるのじゃなく、自分で怪物と対決し、亡霊と対話する楽しさを、あれで私は覚えたような気がします。

これが好きな理由になるのかと言うと微妙ですねえ(笑)。そういう点では私が現八を好きなのは、他のいろんな小説や映画の登場人物を好きなのと、少しちがった要素もあるかもしれ

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