私を束ねないで
参政党の代表自身が「選挙用のスローガンにすぎない」とか言ってるんだから、まともにとりあげるのもばかげているけど、「日本人ファースト」とか「いやなら日本から出て行け」とか言う言い方、腹が立つとかいう以前に、私はほんとに意味不明なのよ。
これは別に「日本人」だけではなくて、たとえば昔、飲み会で研究室の先輩と言い合いになった時もそうだったが、ある組織や団体や共同体やとにかく何かのかたまりについて、「大切にしたい」だの「守る」だの「愛する」だの「まとまる」だのっていう、言い方や考え方をする人、できる人の頭の中のしくみってのが、私はまったくわからない。もちろん「家族」とか「クラス」とか「町内会」とかいう最小の単位でも。
「日本」でも「女」でも「家族」でも「国」でも「地球」でも、いろんな雑多な要素が存在するのがわかってるかたまりを対象に、好きだの愛するだの言うのなら、それは絶対、すべての日本人、すべての女、すべての家族を同じように対象にしないとおかしいわけですよ。手早く言うなら、「日本人」を愛するのなら、どんな嫌いな醜い、自分と反対の立場の人でも、あらゆる「日本人」を愛さなくてはいけないし、「女を守る」とか誓うなら、「守らんでいい」という女や、性格悪い女や醜い女やばあさんやタイプじゃない女や、もうすべての女を守って愛して、そのために死んでもいいと思わなくちゃだめなわけですよ。当然でしょうが。
そうでなくて、気に入らない者や虫の好かない者は排除するというんなら、それは愛国心でも愛校心でも何でもない、ただ自分の好みの、気に入った者だけを愛して守って大事にするってことですよ。それだって、別に悪いことじゃない。ただ、なぜそう言わない。自分の好みに合わないカエルはカエルじゃない、自分と気の合う猫だけが猫だと言うのは、動物好きでも猫好きでもない。
それがどうしてわからないんだろ。自分の趣味にあった者だけ、選んで集めて抱え込んでそれを「日本人」とか「女」とか「どこそこ大学」とか名づけて何かをしたがるなんて、みっともないし、アホ丸出しだし、臆病で意気地なしで、情けないとしか思えない。固まるなら、団結するなら、同じ好みや思想や主張や、誰もが選択選別できるものを条件にするしかないでしょ。日本人だの女だの同窓生だの、雑多で異質な存在が共存するのが前提で必須条件の名目で、人をまとめたりするのなんか、できるはずがないじゃない。するならもう、文句なしに、そこに属するすべての存在を愛して認めて真剣に向き合うしかないじゃない。
新川和江の「私を束ねないで」っていう詩も、そんな気分のものなんだろうが。
わたしを束ねないで
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
わたしを区切らないで
,や.いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩
これで終わればカッコいいかもしれないけど、そこでまた私が思い出すのは、大昔に読んで大いに楽しんだ、SF作家たちの座談会集で、もうその本の題名さえも忘れたけど、一人が「一匹狼の集団が襲ってくる」と言ったのに対し、誰かが「これは恐ろしい。一匹狼の集団なんて聞いたことがない」と突っ込んで、皆で笑ってたことなのよ。
そう言えば、これも昔、友人の詩人が私に向かって「あなたも私も一匹狼だから」と言って、私は思わず吹き出したことがあったっけ。一匹狼風の人でさえ、どうかすると群れたがるし束ねられたがるし束ねたがる。理屈としてだけでも基本的におかしすぎる「日本人ファースト」にあれだけやすやす皆が魅入られるのも、無理からぬことなのかもね。
少し曇っていますが、あいかわらずの暑さです。でもまあ、七月も何だかだって半分は過ぎたからな。今日はまた花屋さんで白いトルコキキョウを買いました。これで少しは涼しい気分を味わうとします。
