第三層
庭の梅の花に小さなつぼみがついて、うれしくて写真をとったらピントが会わずに大半が失敗した。これはほんの数枚の中の一枚。つぼみは全部もうとっくに開いています。
裏の擁壁がきっちりできあがると、我が家の裏庭はかなり広くなって、小さな畑ぐらいは作れそう。日当たりまでも、そこそこいい。でも、もうガーデニングやる体力ないし、特にノラ猫さんたちのトイレ防止が大変そうなので、思いきって工事の人に頼んで全部コンクリートを敷き詰めてもらおうかなと考慮中。花を置きたければ鉢植えにすればいいし。
今日もいい天気で、上の家の灰色猫グレイスが使っている毛布を洗濯してやった。授業も昨日で一応終わりだし、読みかけの本でも読み上げるかな。内田樹「日本辺境論」は面白い。序文と書き出しは、借りてきた猫か処女のように低姿勢なので思わず笑ってしまいそうになり、どうせこんなこと書くからには、よくよくの自信があるんだろうよと思っていたら、果たして第一章から、昔の本から近代史から現状のあれこれまで、縦横無尽に使いまくって、しかも言いたいことのポイントははっきりしているから、高級なことを話していても週刊誌なみに読みやすい。ベッドに転がって読みながら、時々笑いこけている。
その合間には海外ドラマの「セックス・アンド・ザ・シティ」を例によって適当に流して見ている。おおむね好きな場面だが、ここ数日なぜかキャリーがビッグと不倫を始めて自己嫌悪に陥り、サマンサとミランダに打ち明ける場面の二人の友人それぞれの対応が、とても魅力的でそれぞれらしくて好きで、くり返し見てしまいそうになる。
「デスパレートな妻たち」でもそうだったが、スーザンとかキャリーとか主役の女性はわりと視聴者の反発も買いそうな、欠点も矛盾も多い未熟な女性で、後の三人はそれぞれいわゆる「フラットピープル(扁平人物・平面人物)」のような作られ方で、性格や方向性がはっきりしていて、キャラの分担も決まっている。だから悪い意味でも批判でもないが、キャリーやスーザンが他の三人の誰かと話していると、立体的な人形と紙人形がいっしょに芝居をしているような微妙な奇妙さがあったりするが、まあ気になるほどではない。
さてと。私はこのブログの文章もそうだが、洗顔や食事や洗濯や猫のトイレの掃除といった日常業務を第一層とすれば、第二層は専門分野ではないが、いずれ何かのかたちでまとめようとして書きためている原稿の執筆で、第三層は本命の専門の仕事と毎日の作業を位置づけている。だが、雑用や趣味(クロスワードパズルだのDVD鑑賞だのネット遊覧だの)にずるっと時間をとられると、最悪の場合第三層はおろか第二層にすら手が届かない日があって、そういう時は気分がもうドツボに落ちこむ。今日こそは第三層にまで食い込むぞ。見てろ見てろ。