陽気なカッサンドラ
第三層どころか第二層までも昨日は行けずに撃沈した。夕方まではまだわりと、いろいろ仕事も順調だったが、ふと、湯布院のホテルから何か封筒が来ていたはずで、来年度の会員用の宿泊券(数万円相当)じゃなかったかと思い、確認しようと思ったら、どこにもなく、家中ひっくり返して散らかしまくり夜中まで時間をつぶした。
それでも見つからず、ふと、結局宿泊券じゃなくて、イベントの通知だったから処分しちゃったかもしれないと思い、今朝ホテルに電話したらやっぱりそうだったようで、宿泊券は来週あたり送る予定だと。ほっとしたけど、脱力なんてものじゃない。
しかし、ひっかき回したおかげで、探していた、なくなったとあきらめていたものが、いくつか見つかったし、まあ今日一日がんばって、散らかしたものを整理すれば、そう悪い結果でもないか。
と思いつつ、疲れたのとほっとしたのと天気がいいのとで、ついベッドにひっくり返って「日本辺境論」(内田樹)を読み続ける。あいかわらずペースは落ちずに面白い。読書会のテキストにもよさそうだ。
大ざっぱな話をする、細かい批判は受けつけない、と序文で宣言した意味がよくわかる。これだけ広く話そうとすると、小さい部分での揚げ足取りや、ピント外れな利いた風なものしり発言をして、参加しようとする人がさぞかし多いだろうからな。なまじ、わかりやすいから、口をはさめそうな錯覚に陥る人も多そうだし。
私は以前、全部ではないが橋本治さんの著述を読むたびに、これだけ精緻で膨大な思考や論理を持てる人は、そうじゃない他の人たちの中で生きていて、毎日どんなに孤独で腹立たしいだろうと、胸が痛むようなつらさを感じることがよくあった。そう思う私すら理解できていないだろうなと思う部分も多かったから。
そしてそれは、もしかしたら、橋本さんの文章や論理の中にどこか漂う、諦めやいらだちや苦笑や悲しみにもよるものだったかもしれないと今になって思う。
なぜかというと多分、内田さんの文章を読んでいて、「わあ、これだけのことを考えて知っていてわかっていて、世の中の動きを見ていたら、橋本さんもそうだけど、トロイ戦争のカッサンドラみたいな気分になるだろうなあ」と思うからだ。
カッサンドラは女預言者の王女だが、太陽神アポロに呪いをかけられていて、あらゆる未来が正確に見えるのに、それを告げても誰も信じてくれないのである。だから、自分の敗戦も都の崩壊も、捕虜になって連れて行かれる先で殺されることも、全部わかっているけど、避けられないし見ているしかない。あーあ、ってなもんだが、これは相当きつい。
ただ、内田さんの文章には、橋本さんのような淋しさや悲しみがない。ある意味恐ろしい指摘をいろいろしてるのに、けろっとしていて、涼しい顔で、未来も人類も信じているのかどうでもいいと思っているのか、そこのところはわからないが、とにかくちっとも暗くなっていない。嬉々として、と言うほどではないが、そう言いたくなるぐらい、鼻歌まじりで事実を並べ検証し、かなり救いのない結論や展望を、ほとんど楽しげに広げてみせる。はい、お父さんは亡くなってますねー、お母さんは狂ってますねー、家はシロアリに食われてますねー、あなたの病気は手遅れですねー、銀行預金はもうないですねー、とか、たてつづけに言われているようで、何となく笑ってしまう。
ネットでのいろんな批評や感想は見ないことにした。内田さんやこの本がどうこうではなく、全部がそうではないまでも、これについて書いている人たちというのは、大抵の場合、見たらどこかがどうしようもなく、気の毒になりそうで。めちゃくちゃ強い人や、めちゃくちゃ美しい人に対して、自分の取ったトロフィーや使っている化粧品を教えて説明しているような、そんなコメントが多そうで。
ついでにひっくりかえした荷物の中から出てきた文庫本の第三だか第二だかの「若草物語」もちょこちょこ読んでる。ジョーがローリと遠ざかろうとするくだりだ。幼い時に読んだ本では、この経過は詳しく書いてなかったけど、それでも何となく、教育に関する部分とつながる、気持ちの悪さと不潔感を、この恋愛処理(としか言いようがない)のくだりには持った。もしかしたら、私が「赤毛のアン」シリーズが好きで「若草物語」を嫌悪したのは、この恋愛観もあったのかな。意外と根は深かったのかもしれない。