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紀行全集のために(9) 「広島日記」解説

もうあまりにも長いことほったらかして、出版社に迷惑かけまくりの「紀行全集」の解説原稿です。

もうこのまま使うかどうかわかりませんが、とにかく、この種の原稿を片っぱしからアップします。なお、まだ表記の整理もしていないのでお見苦しいですが、すみません。いずれ訂正しますが、とにかく急ぎます。(20023.3.30.)

 

「広島日記」解説

【作者と背景】 
「広島日記」は、日本史籍協会叢書54「甲子雑録三」(註1 名古屋の戯作者小寺玉晁が編した叢書)に翻刻が所収されている。しかし一般の読者の目には触れにくいことも考慮し、紹介することにした。なお「甲子雑録」では内題は「広嶋日記」となっており、他にも表記などに細かい異同がある。
 日本史籍協会叢書の丸山國雄氏解題によると、作者は尾州藩士古屋景命。通称長太郎、山翠と号した。ただしこれは「広島日記」末尾の、元治二年、要齊忠陳が作者について記した奥書の要約である(註2 史籍協会叢書の翻刻では、この後に更に一行、慶応元年、廣路の奥書が加わる)。その部分は漢文なので、簡単に内容を述べる。

 「景命は尾張藩に仕え、先祖は主水と称して安芸国隠渡瀬戸の人であった。敬公に仕えて尾張に来て千石を賜っていた。その孫が故あって自殺し家も絶える。その後、藩主はその子を召して若干の禄を与え、次第に加増して百五十石となり代々仕えた。寄合組に属していて元治元年の「長防の役」に横井時定(三太夫と称する)の軍に所属して広島に向かった。文中に「隊長」とあるのは時定のことである。その間に名所旧跡を訪ねているが、若くて健脚であるから通常に倍して多くを見ている。最近この冊子を持って来て私に見せたので急いで書写して、居ながらにして旅を楽しむ材料とした。」

ここで「長防の役」とあるのは、元治元年の長州征伐のことである。これについては丸山氏の解題が、簡潔でわかりやすいので引用する。

 「元治元年は前年の政変の後をうけ、長州藩を中心とする攘夷討幕派と公武合体派及び幕権回復派との激突の年であった。また対外関係においても四箇国連合艦隊の下関砲撃事件を頂点として、長州藩の攘夷論も開国論へと、転進する様相が見られるようになった。前記の幕権回復派とは江戸にある老中を中心とする勢力であって、彼等は京洛の情勢に暗く、慶喜の行動に対してさえ猜疑の眼をもってこれを眺め、在京の佐幕派とも意見の対立を見るに至った。七月に起った蛤御門の変に際しては、会・薩両藩は協力し、長州勢を撃退したが、その後公武合体派も分裂し、却って幕権の衰退を招くようになった。
 変後の処置として、長州藩追討のことが議せられ、その議が決定したのは七月二十三日のことであった。ついで追討の朝命が幕府に下されたが、これが結末の如何によっては、長州藩はもとより、幕府にとっても、存立の危機を招くやも知れず、両者共にその運命に関る重大事件であった。然るに老中は、大勢に迂遠して、幕権回復のために盲目となっていたので、かかる時期において、参勤交代制度を復活しようとした。しかしかかる時代錯誤の政策を諸侯が甘受するわけはなく、幕府は却って自ら求めて、その権威を失墜する羽目に陥った。また将軍親征のこと竝びに征長総督の人選等に手間どり、朝廷より催促を受けるが如き醜態を暴露した。幕府は遅延の理由として横浜鎖港常野地方擾乱(水戸藩の内虹、武田耕雲齋等の反抗)のことを挙げて、わずかにその汚名を糊塗した。また長州藩でも恭順派が勢力を得て、藩親父子の謹慎・三家老四参謀の処刑をもって、寛典を請うこととなり、第一回長州征長の役は戦わずして撤兵するに至った。しかしその後長州藩では高杉晋作を中心とする改革派が勢力を回復し、討幕の準備を進めるに到った。」

【内容の概略】
 丸山氏はまた、この紀行について、「十月十八日尾州を出発十二月二十八日帰尾、日数七十余日、足跡は十二国にわたっている。文筆に秀いで、和歌をたしなみ、旅中のうさを歌に託して自ら慰め、道中の民情・風物を記して残すところなき感を与える。これまた優れた旅中日記と言うべきか。」と評価する。
 その行程をもう少し詳しく述べよう。十月十八日に名古屋を出発、清須を経て萩原に宿る。十九日は船で大垣に行く。二十日は垂井から不破の関を越えて柏原に至る。伊吹もぐさを売る中でも大きな亀屋と言う店に巨大な福助人形が置かれていると記している。
 二十一日は雨中を醒井、番場、摺針峠と進み、琵琶湖の竹生島を遠望、鳥居本では柿や丸薬(神教丸)を売る店を見る。多賀神社に参詣、武佐に宿る。二十二日は「御用荷物の差添」の役目があって人夫とともに先を急ぎ、牛若丸の古跡、夜須の布晒しを見て、草津に着く。二十四日は野路の玉川を見て伏見に入り、二十五日は男山八幡宮に参詣、枚方でくつろぐ。
 二十六日は大坂城を見つつ生玉明神に参詣、二十七日は天王寺、新清水を訪れる。二十八日は兵糧米を受け取りに行き、大坂見物、二十九日も和中散の店などを遊覧する。
 十一月一日は、老公の出発を見送ったあと、遊郭を見物、二日は同輩たちと尾張の出身者を訪ねて、ともに街中や近郊を遊覧、梅林にも行く。五日に広島へ出発と命令が下ったので、三日と四日はその準備に追われる。
 五日は華やかな行列で出発し、西宮で泊まる。戎金という土産物を見る。六日は兎原の住吉神社に参詣、小山田高家の古戦場や、布引の滝を見物し兵庫に着く。六日は須磨の「平家物語」ゆかりの古戦場を熱心に見物し、八日は海岸を進んで相生の松など見て加古川に泊る。九日は石宝殿、曽根の松を見物し姫路に泊る。
 十日は書写山に登り、正条に泊る。十一日は備前に入り三石に泊る。十二日は藤井、十三日は旭川を渡り、吉備津宮に参詣後、板倉に泊る。十四日は矢掛、十五日は神辺、十六日は尾道に泊る。途中で陰陽石を見る。十七日は三原の町を見て本郷に泊る。十八日は西条に着く。十九日は「かちへ坂」を通り、「勝得」なら縁起がいいと喜ぶ。海田市に泊る。
 二十日は広島に到着、二十一日は町を見物し酒を飲む。以後十二月六日まで滞在し町を見物したり警護をしたり本陣を訪ねたりしている。自分の先祖が住んだという隠渡の瀬戸の家も残っていると聞いて、訪れる計画を立て、また仕事の合間に厳島に交代で参詣するため、仲間とくじを引いて、早めの日に当たったことを喜んでいたら、六日に京都に引き返し市内の警護に当たるよう命が下り、計画は中止する。
 八日に出発し、往路と同じ行程で帰るが、赤穂義士の古跡や吉備津神社、室の遊女町などの描写が往路よりはるかに詳しい。湊川や生田の古戦場もていねいに描写する。大坂や京都も再度見物している。二十八日に名古屋に着いて軍装を整え、列を正して隊長宅に集まり凱旋を喜び解散する。

【異色の戦記文学】
 古くはカエサルの「ガリア戦記」、最近ではエルネスト・ゲバラの「チェ・ゲバラ 革命日記」まで戦争での移動の日々を題材とした紀行の名作は多い。ただし、この「広島日記」は実際の戦闘がなかったこともあって、伴林光平の紀行のような血なまぐさい場面は登場せず、時代が大きく変わろうとしている社会の騒擾も伝わっては来ない。
 また須磨をはじめとした古戦場に立つときも、そこでの戦闘や死者と自らが向かう戦場を結びつけて感懐にひたるといった記述はまったくない。平穏な観光の視線と姿勢である。
先に引用した当時の背景を考えれば、不透明で複雑な状況下、かえって実感や緊張感を欠く行軍となっているのかもしれない。あるいは戦場で実際に戦う時間は少なく、限りなく待っている時間が長いと言われるように、これは普遍的な現象でもあろうか。戦地に到達するまでの距離と時間の長さが印象的で、おそらく実戦の経験もない作者たちの、どこまでものどかな日常が奇妙な異空間を作っている。

【書誌】
(後述予定)

 

(以下は短縮版です。)

「広島日記」解説

「広島日記」は、日本史籍協会叢書54「甲子雑録三」(註1 名古屋の戯作者小寺玉晁が編した叢書)に翻刻が所収されている。しかし一般の読者の目には触れにくいことも考慮し、紹介することにした。なお「甲子雑録」では内題は「広嶋日記」となっており、他にも表記などに細かい異同がある。

 作者は尾州藩士古屋景命。通称長太郎、山翠と号した。「広島日記」末尾の、元治二年、要齊忠陳が作者について記した漢文の奥書によれば、景命は尾張藩に仕え、先祖は主水と称して安芸国隠渡瀬戸の人であった。敬公に仕えて尾張に来て千石を賜っていた。その孫が故あって自殺し家も絶える。その後、藩主はその子を召して若干の禄を与え、次第に加増して百五十石となり代々仕えた。寄合組に属していて元治元年の「長防の役」に横井時定(三太夫と称する)の軍に所属して広島に向かった。その際の紀行である。

 元治元年七月蛤御門の変の後に長州藩追討の決定がなされたが、幕府は総督の人選等に手間取り、出発が遅れ、また長州でも幕府の恭順派が反対派を処刑して寛大な処置を請うたため、追討軍は中途で撤兵した。

 古来、戦いの旅を題材とした紀行の名作は多い。しかし、実際の戦闘がなかったこともあって、「広島日記」には伴林光平の紀行のような血なまぐさい場面は登場せず、時代が大きく変わろうとしている社会の騒擾も伝わっては来ない。 また須磨をはじめとした古戦場に立つときも、そこでの戦闘や死者と自らが向かう戦場を結びつけて感懐にひたるということはなく、平穏な観光の視線と姿勢である。不透明で複雑な状況下、かえって実感や緊張感を欠く行軍となっているのか、あるいは戦場で実際に戦う時間は少なく、限りなく待っている時間が長いと言われるように、これは普遍的な現象なのか。戦地に到達するまでの距離と時間の長さが印象的で、おそらく実戦の経験もない作者たちの、どこまでものどかな日常が奇妙な異空間を作っている。

 

【書誌】

(後述予定)

 

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