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終戦記念日に。

◇とりあえず、映画「ひめゆり」の感想、昔書いたものを「九条の会関係資料」の棚にアップしたので、ごらん下さい。

◇終戦記念日だしお盆最終日だしで、叔父のことを考えています。
叔父の板坂元は、母の弟で大変仲の良い姉弟だったようです。母は今でも「あのころはプロ野球はなくて、六大学野球に皆夢中だった。それでも女の子で野球に熱を上げる者などいなかった。でも自分は野球好きで、慶応の熱烈なファンで、早稲田ファンの元ちゃんと、いつも早慶戦で盛り上がっていた」と、なつかしがって話します。

叔父は男二人女二人の末っ子で、かわいがられて育ちました。軍隊に行くことになった時、中津の兵営まで見送った祖母は、帰ったあと、へやの壁にかけた叔父の洋服を黙って何度も何度もなでていたと母は数年前に初めて私に話してくれました。それ以外には祖母は、何一つ嘆きもしないし愚痴も言いませんでした。

終戦のとき、叔父はまだ戦地でした。祖父母と母たちは、田舎の家で、その夜寝ながら、「アメリカの軍隊が来たら私たちは皆殺されるだろう。元ちゃんだけが、大陸で北の方に逃げてどこかで生き延びたら、それで板坂家の血は残るかもしれないね」などと話していたそうです。何だか明るいのか暗いのかわからない展望ですが、そんなことを皆で考えていたのだとか。

祖母は少女の頃は長崎でアメリカ人の宣教師の通訳をしていました。祖母も母も叔母も長崎のミッションスクールに行って、キリスト教徒や外国人の知り合いも多い家族でした。そんな文化を知っていても、母は軍国少女で米兵が墜落して来たら竹やりで突き殺そうと本気で考えていたし、米兵に殺されると一家で自然に覚悟していたようです。

◇叔父は無事で、やせ衰えて帰って来ました。持って帰って来た軍隊の毛布が、私の小さいころもずっと家にあって時々私も使っていました。カーキ色で、星が一つついていました。

◇叔父から直接戦争の話を聞いたことはありません。国文学を学んだ叔父は、その後、イギリスのケンブリッジ大学とアメリカのハーバート大学で、日本文学を教えました。アメリカの文化に親しんで、いくつも本を書きました。専門の国文学や、お洒落の本や、アメリカのことや、江戸文学をネタにした下ネタなど、内容はさまざまでした。
でも、その中で、ときどき戦争や政治の話が出ると、叔父は明確に終始一貫して戦争と、それにつながる動きを批判し攻撃していました。決してあいまいな言い方はしませんでした。それは自分の体験や、死んで行った戦友たちの記憶にもとづく、ゆるぎない強さを持っていて、少しのぶれもありませんでした。

自分の周囲で死んだ兵士たちは、天皇陛下万歳と言って死んだ者はいない、最後のことばは一人残らず「お母さん」だった、と叔父はどこかで書いていました。叔父は戦争の記憶を直接に中心に書くことはなかったけれど、同時代の人なら誰でもそうであるように、そのような数知れない記憶を持っていたのだと思います。

◇叔父は10年ほど前に亡くなりました。奥さんは長崎の人で日本人ですが、子どもたちは皆英国籍や米国籍で、アメリカの人と結婚し、叔父の墓もアメリカにあります。晩年は創価大学に勤務していました。たしか雪村いづみのファンでしたから、叔父はうれしかったと思います(笑)。

創価大学と創価短期大学の教職員と学生と卒業生が戦争法案に反対する声明を出したと聞いて、思い出したのは叔父のことでした。
叔父がいたら、必ず、呼びかけ人の一人になっただろうと思いました。確実に、それが信じられる生き方を、叔父はして来たと、あらためて感じます。

◇私がひきついで行きたいのは、このような人たちの思いです。死んで行った人々の失われた命に責任を負う、ゆらがない生き方と、たしかなことばです。

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カツジ猫