考える夏。
◇昨日、千鳥ヶ淵墓苑の出口で、一人で戦争法案反対を訴えておられた女性です。
https://twitter.com/ChemPack/status/632444291059548160
この方に右翼の方らしい男性がからんで来られたらしいのですが、それとなく心配して女性を見ていた、特にたがいに知り合いでもない三人の方が、男性を制して立ち去らせてしまったそうで、本当にいろいろと気持ちがゆさぶられます。
◇八月末の締め切りの仕事を必死で片づけていたら、さっき、そんなに急がなくていいことがわかって、どっと安心した。でもやりかけたから、やってしまった方がいいのかな。でないと、いろいろ忘れてしまいそう。
今日は雨がときどき降ってまあまあ涼しかった。この時とばかりに、春に買って来ていた、小さい桜の木を、大きな鉢に植え替えた。ちゃんと育ってくれるといいけどな。90センチぐらいのミニ桜らしいので、私の狭い庭でも大丈夫だと思うんだけど。
それから、ネペンテスとかいううつぼかずらみたいな観葉植物が、風呂場においていたら、これも巨大化してうねっているから、大きめの鉢に移して外においてやりたい。でも冬は玄関に入れないといけないだろうから、私が持ち上げられるぐらいの重さの鉢にしとかなくてはならないのが悩ましい。
◇知り合いの方からいただいた水ようかんを食べるのに、適当な器がほしくて、昔学生がくれたのもあるのだが、この前田舎から持って来た、私が小さいころに、桃や梨を入れて祖母が出してくれていた、紫色のガラスの器を使ってみたくなり、上の家から持って来て、洗って水ようかんを入れた。冷やしたお茶といっしょに味わったら最高だった。
これは私にも記憶がないほど古い、蓋付きのどんぶりのセットも田舎の家の戸棚から出てきて、見るからに古めかしいのを、この間から食事のときに使っている。ぶあつくて、案外見た目よりこじんまりとしているのが、かわいい。食器として使われるのは何十年ぶりかわからないから、どんぶりも目をまわしているかもしれない。
◇戦争法案反対のビラなど書いたりしている身としては、首相の70年談話は当然読まなくてはいけないのだが、毀誉褒貶の内外の評判を聞くだけでも、何かもう、消化不良とか不完全燃焼とかいう文字ばかりが頭に浮かんで、どうも読む気がしないでいる。絶対にめちゃくちゃ身体に悪そうだ。あと、玉虫色とか鵺(ぬえ)とか、そんなことばも目にうかぶ。
学生だったころに、友人たちとよく冗談にしていたのが、「試験問題でヤマが外れまくって、まったく予習していない題について書けと言われたときにどうするか」ということだった。その場合のテクニックは以下の通りだ。
まず、「なるほどたしかに、この問題は重要ではあるのだが、それについて述べる前に、まずこのことについて説明しておく」と言って、とにかく自分の調べてきたこと、知ってることをありったけ書く。そして、紙面が埋まったところで、「さて、この質問の本題に入るべきだが、紙面と時間が尽きたので、あとは簡単に述べたい」と言って、お茶をにごす。これでたいがい切り抜けられた。もちろんいい点はもらえないが、先生としても、何かは調べてきているのだなとわかるから苦笑しながら少しは点をくれる。
首相の国会答弁はすべてその手法だと、ずっと前から思っていたが、今回の談話は、どうやら、私が今度は教師として学生の試験やレポートを採点するときに、最もいらいらかりかりするタイプの答案の特徴とみごとに一致している気がする。
何を言いたいのかわからない。そもそも言いたいことがない。自分の考えはあるらしいが、それをきちんと論証したり他人に説明しようという気がまったくない。ただ、こちらの出した課題や条件に合致させようとして、形式や言葉だけを押しこんでつないで、無難にまとめているだけ。
文章が下手とか、証明に無理があるとか、そういう欠陥ではない。そういうのなら指摘もできるし、読んでいてそんなに不快ではない。だが、この手の「条件クリア」だけをねらった答案は、本当に書き手が見えない、心がない、言ってることがわからない。ぬめぬめぬるぬる、つかみどころがなく、読んでいると気分が悪くなって来る。
そんなにしょっちゅうではないが、時々そういう答案がある。いや、ちゃんと読んで添削するけどね。仕事ですから。学生の場合、こういうのを書くのは、わりと優秀な人で、だから指摘して指導すると、あっという間に改善されることも、けっこう多いし。
ただ、さしあたり、そういう答案というのは、実に読んでいて苦痛なのだ。文章やことばというのは恐ろしいもので、粗末にあつかうと確実に復讐される。汚さと不潔さがいっぱいに広がり、とっちらかったゴミ屋敷のような悪臭が蔓延する。
首相の発言は、これまでもいつでも基本的にはそうなのだが、今回の談話では、それが凝縮されて炸裂しているような予感がする。嫌悪感が先に立ち、近寄りたくない。私は別に自分と反対意見の人の文章を読むのは少しも苦にはならない、むしろ好きなぐらいだが、これは、そういう問題とちがう。読むだけで身体が汚れるような気がしてならない。
◇ただまあ、首相がそういう気味悪い談話を発表したせいか、ネットで見ていると、この夏、いろんな人たちが、かつてないほど真剣に、これまで正面から考えて来なかった問題のいろいろをしっかり考えようとしている気がする。知識人は知識人なりに、庶民は庶民なりに。戦死者をどのように追悼するべきなのか、国の安全はどうやって守るのか、そういったことのひとつひとつを。
うまく言えないが、戦前戦後を通じて、こんなにたくさんの人たちが、いっしょうけんめい何かを考えようとしている夏は、これまでなかったのではないだろうか。「シールズ」の発散するみずみずしさのようなものが、涼しいミストのように、それらの上には一面に広がっている。
私は毎日新聞の一面記事にはもう愛想をつかしているし、朝日新聞の何かコラムが、安保法案に対する意見が「両極に分れた」ことを嘆いているのを、けしからんアホかとののしっている人たちにも賛成する。しかし、今この段階で次々に初めて安保法案や政治について考えはじめ耳と目を使いはじめた人たちが、もうすでに意見が固まってしまった人たちの高度な議論だけでは、とっつけないということも、たしかにあるような気もする。初歩的だが高級な、大学で言えば教養課程の勉強ができる資料をそろえ続けなければいけないし、私もそうだが、「九条の会」のメンバーなども、これまで以
上の新しい勉強をし、いろんなことを考えるようにしておかなくてはいけない。
ひとつの立場を守っているからと言って、勉強することや迷うことをやめてはいけない。これまで考えなかったことを考え始めている人たちを、どんどん増やして行かなくてはいけない。