美しい男(大事の前の小事・その2)
◇「こんな大事な時期に、どうでもいいことが気になる」シリーズで、このタイトルをつけたのだが、あまりに前に「その1」を書いたので、何だったかも忘れてしまった(笑)。よっぽど小事だったんだろうな。とにかく、今回はその2。
とは言え、これは、ひょっとしたら、少し前に話題になってた、「シールズ」と、その周囲の活動の中での女性の扱い方とも微妙に関係する話かもしれない。私は昔からずっと、ウーマンリブもフェミニズムもジェンダーも多分私ほどは過激じゃないとずっと感じて来たけれど、このことについても、そんな気がする。
◇しばらく前から、映画や海外ドラマの刑事ものや法廷ものを見ていて、いつも気になることがある。主人公というか一応はまあ正義の側の刑事や弁護士その他の人が、男性の容疑者や共犯者から情報を得ようとしたり協力をとりつけようとして脅かすときに、「おまえのようなのが拘置所(とか監獄とか)に入ったら、まちがいなくレイプされることになるが、それでもいいか」と言う。大抵はその脅かしは功を奏して、その容疑者や共犯者は屈伏して取引に応じる。
そう言われるぐらいだから、そんな風に脅かされる男性は、だいたい小柄で優男で、つまり拘置所内の他の男性から女性として扱われそうになるタイプである。私が感じるこだわり、違和感、疑問というのはまったく単純で、いったいこういうタイプの人の人権は保障されないのだろうかということだ。
脅かす方の刑事や弁護士は、その昔のダーティ・ハリーなみに、特に法を無視して過激な暴走をするタイプというようでもない。したらいけないことをしているという確信犯でやっているようにさえ見えない。ごくごく普通にそういうことを言って脅かし、目的を達する。
私は不思議でしょうがない。未成年者や女性への性暴力に対しては、あれだけ厳しく取り締まる国で、女性として扱われそうな男性への性的な暴力については、なぜ何も対策を考えようとさえしないのだろう。それがあることを当然の前提として、脅迫することに後ろめたさを感じないのだろうか。
かつての黒人奴隷や女性に対して、その人たちのどんな苦痛も苦労も苦悩も目の前に見ていても、まったく感じないでいられた鈍感さと同じものを私は感じる。そして、こういうことを放置したまま、女性の権利や子どもの権利にいくら敏感になっても、それはどこか空虚なものに思えてならない。
◇ものすごく大ざっぱな言い方をすると、私は男女の役割分担が厳しい社会で、勝ち組として優遇されるのが美しい女と強い男だとすれば、その反対に力を発揮できず負け組に甘んじるのは強い女と美しい男だろうなと、昔から漠然と感じてきた。
ここに「醜い」と「弱い」という項目を組み合わせれば、もっと図式は複雑になる。つまり、「美しくて弱い女」「醜くて強い男」が生きやすい世の中では、「醜くて強い女」「美しくて弱い男」は多分かなり生きにくい。「美しくて強い女」「醜くて弱い男」「美しくて強い男」「醜くて弱い女」はどうかと言えば、やっぱり「美しくて強い女」は、その強さゆえに、「美しくて強い男」は、その美しさゆえに生きにくい面があるだろうし、「醜くて弱い男」は、その醜さゆえに、「醜くて弱い女」は、その弱さゆえに生きやすい面があるだろうと思う。
もちろん、この「生きやすさ」は、幸福感や充実感と結びつくわけでもないけれど、とにかくどっちかというと「醜くて強い女」である私は、いつも思いがけないところから「はあ?」という攻撃をかけられることがよくあって、それは多分「美しくて弱い男」も似たような状況ではないかと何となく想像する。
だいたい、小さなことかもしれないが、文学作品や映画や漫画で、こういう存在はろくな扱いをされず、生き方や身の処し方の見本がなかなか見つからないということはかなり困る。
私の周囲でこれまで見た若い男たちの中で、女性的な美しさを持つ人ほど、ことさらにけんかの強さや荒々しさを強調することが多かったのも、それと関係があるのかもしれない。
草食系男子とやらの台頭や、フェミニズムやジェンダーの高まりの中で、これらの状況は一定の改善をされてきた。だが、今一番それらの中で、取り残されているのは「美しくて弱い男」で、そういう存在に対する根強い軽蔑と軽視とが、「刑務所でレイプされて当然」という嫌悪感を肯定させてしまっているような気がする。昔は女性が中心になって引き受けていた、これらの嫌悪感や拒絶感を、こういった男性が引き受ける割合が今は大きくなっている。
◇そして私は、このような男性の生き方を楽にしない限り、男性も女性も決して完全に解放されることはあるまいと思う。自分がそうであってもなくても、こういう男性が生きていていい社会が生まれないかぎり、男性のすべてはきっと女性を信じない。
今ではそんなことはないが、私が若いころ、「男の人を戦争に行かせて戦わせるのはひどい。男性差別だ」などと言っていたのは、私の周囲では私しかいなかった。女性の権利を訴えて活動している立派な女性たちが、平気で「男は闘争本能があるから」と言っていたし、私が「男性が戦争に行くことについて、私たちはとめなければ」と言うと、「男は戦うのが好きなんだから勝手にやらせとけば」と言った人もいた。私はそのとき、自分が男なら絶対にこんな女たちのめざす社会は来てほしくないだろうと思ったものだ。
◇ことのついでの、やつあたりで、言っておく。私はこのところしばらく、ミュージカル「レ・ミゼラブル」にはまっていて、ついいろいろなネットの記事とか読んでいるのだが、その中でひとつ驚いたのは、かの「22歳で18歳に見える」、少女のような美青年アンジョルラスが、まがりなりにも原作に近いイメージで描かれたのは、最近のトム・フーパーの映画が初めてだということだった。
いちいち見たわけではないが、ネットでの情報を総合する限り、ミュージカルの舞台でも、数度の各国での映画化でも、アンジョルラスを「花のような」美貌の青年として描いた例はない。そのカリスマ性が強調されて時には山賊の首領のように荒々しい雰囲気で登場するという。
アンジョルラスは、先の私の分類では「美しくて強い男」の範疇に属するとは言え、原作の彼の美貌は「小姓のような首筋」だの「フィガロの結婚のシェリュバン」だのとあるように、どう見ても女性的な美しさだ。映画で演じたアーロン・トヴェイトは、普段はからっからに明るいアメリカ青年で、ぎゅうぎゅうしぼっても水の一滴も出ないほど乾いた現代風な感じなのに、画面ではがらりと変わっ
てどこかヨーロッパ風の妖艶ささえ漂わせる優雅なアンジョルラスになっていたのは見事というしかないが、本当はあれでもまだ足りないぐらいかもしれない。
かと言ってビョルン・アンドレセンやアニメ「少女コゼット」の彼では強さに欠け、ヘルムート・バーガーやヘイデン・クリステンセンでは前向きな健全さに欠け、つくづく生身の人間が演ずるにはあり得ない人物像ではあるのだが、それにしても、このような女性的な美青年(別に腐女子におもねるわけではないが、刑務所だったら必ずレイプされるタイプ)を、皆に信頼されるリーダーとして絶対に登場させたくなかったとしか思えない、これまでの映画や舞台は、要するに現実でも架空でも、こういう存在をどう扱っていいかがわからず、見慣れた「たのもしい男性的なリーダー」にするしかなかったのだろう。
これに似た例はさがせばきっと多くて、以前にも書いたが有吉佐和子の小説「紀ノ川」が映画化されたとき、丹波哲郎が演じていたヒロインの義弟は、原作では明らかに美貌の病弱な優男だ。だからこそ見えてくるヒロインの心象風景、旧家の人間模様などが、映画ではまったく浮かび上がらない。まあ丹波哲郎も映画そのものも悪い出来ではないのが救いだが、私は見ていて、やれやれ有吉さんも遠慮しないで、あの義弟の繊細な美青年ぶりをこれでもかというぐらい書いておけば、ここまでその設定は無視されなかったのにと思っていた。
しかし、ユゴーは「レ・ミゼラブル」の中で、それこそ現代の腐女子たちもあきれるほどに、これでもかというほど徹底的にアンジョルラスの外見を描きつくしている。それでもそれは無視されるのだから、有吉さんがどうがんばって書いても結局丹波哲郎になったのだろうなあ(笑)。
原作を無視し、もしかしたら現実も無視して、映画や舞台やドラマは、女性的な美しさを有する男を排除する。そして、それに近い存在の「刑務所で女性として扱われそうな男性」が、どんなに凌辱されようと、この人権最優先の時代に何の対策も講じようとしない。これは深刻な問題だし、男女の生き方に関する、放置された最後の戦場のひとつのように思えてならない。