腐臭。
◇夜は雨が降って寒くなるとのことで、夕方からは暗くなって雷も鳴ったりしていましたが、さっき外に出たら、上の家の灯りを消し忘れたっけとあわてたぐらい、大きな月がきらきらと屋根の間に輝いていました。
うす暗いと仕事がしにくいのですが、そこを何とかがんばって、上の家の二階をあらかた片づけました。チェックした限りでは今のところ虫にやられたのは、最初に見つけた三つだけのようで、少しほっとしています。
これというのも管理の容量を超えているからだと、もう少々未練のある服でも寄付の方に回すことにし、なおかつ叔母の上等のスーツなども、ご近所の方にさしあげることにして、相当に減らしました。今後の人生で私が立派なスーツを着ることはそんなになさそうだし、ご近所の奥さまはリフォームの達人で、エプロンやバッグまで、とてもセンス良く作ってしまわれるし、服も素敵に着こなして下さるので、私が飼い殺しにしておくより、服もずっと幸福だと確信できる。
◇それで達成感がそこそこ生まれてしまって、下の家はまだ散らかったまま。今夜もうひとがんばりするか、明日の朝に一気にやるか。とか言いながら、さっきDVDを返すついでに買ってきた、しょうもない軽い内容の文庫本の山にちらちら目が行ってしまう。
◇例の猫たちを惨殺した犯人の判決が12日に出るそうで、裁判官に手紙を書こうという呼びかけも行われています。私は、この事件で精神的被害を受けた人たちが損害賠償の訴えを起こそうとしているのを、支持はするけど私自身はまさかこのくらいで、精神的ショックを受けて体調くずすほど繊細じゃないからなあ、ちょっと残念だぐらいに思っていたのですが、たしかに、このニュースにふれた日には、うちの猫たちを見たり世話をしたりしていても、かなり気持ちが不安定になるのに気がつきました。
熱湯をかけられ、バーナーで焼かれ、皮膚がめくれ耳がちぢれ、苦しみぬいて、それを動画でさらされて、猟奇的な変態集団にあざ笑われながら死んで行った猫たちの一匹一匹を思うとき、自分の前で平和に生きている猫たちの姿が現実ではない幻のように、ゆれて、ゆがみます。
猫でも人でも、愛するものが残酷な目にあわされることを、いつもどこかで恐れていました。十数年前、愛猫のキャラメルが腕の中で死んだとき、悲しみの中にもどこかで私は「これでもう、誰も彼を傷つけたり苦しめたりすることはできなくなった。彼は幸福に生き、大事にされたまま死んだ」という安らぎも確かに感じました。今はそう思うこと、そう期待することさえが、無惨に殺された猫たちに失礼になるような気がして、願うことさえできません。
動物を殺し、その映像を楽しむことを恥とも思わず堂々と公開し公言する集団が、大手を振って生きていられる社会は異様です。私はこういった人たちが「生き物苦手掲示板」と自分たちの住む場所を名づけ、猫や動物を嫌いと口にするのを、本心と思えません。
苦手で嫌いなら近づかないし関心も持ちません。こういった人たちは、猫も動物も好きなのです。関わりたいし、支配したいのです。彼らなりの愛し方です。お粗末で臆病で、劣等感とプライドでぶくぶくにふくれあがった、小動物と世間への、関心の引き方、自分に注目してもらいたい哀れな欲望。その精神の弱さと醜さ、そこに漂う腐臭が私を息苦しくさせます。
私は多分そんなに日本も日本人も愛してないし、誇りにも思ってない。しかし韓国やその他を軽蔑し憎悪し、日本と日本人が美しい、美しくあるべきと思っているような人たちは、絶対にこのような醜い存在を国の中に許してはならないのではないですか。国や民族の尊さや気高さを求めるなら、このような存在と向き合うべきです。それとももしや、このような人たちは実は外国人だとでも説明するのでしょうか。どうなんでしょうね。