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腹を据える

高市氏が自民党総裁になり、今の怪しげな野党の多さじゃ、多分総理にもなるんだろうが、どうせその内、あっちから不愉快な攻撃が来るんだろうから(まさか私個人に対してどうとか言うんじゃないよ。一般的に、さぞかしろくでもない事態が頻出して、私の足元にまで被害が押し寄せるだろうっていう意味)、その時まではせいぜい、こっちの体制を強化し体力を整えて、いつでも長期でも全面でも戦闘態勢に入れる準備をしておくとしよう。心配し、怒っている人は多く、私もまったく同感だが、とにかくこうなったら、腹をくくって待機するしかない。言いたいことは山ほどあるが、とにかく今は覚悟を決める。

初の女性総理とか騒いでる人もいるようだが、思えばそれ言うんなら、日本って、相当女性が要職についてるんじゃないですかね。国のトップが(多分)女性総理、首都の知事が女性、検察トップも労働組合トップも、野党らしい野党二つの党首もどちらも女性ですよあなた。この中で私が信頼できるのは野党の二人の党首(福島みずほ氏と田村智子氏)しかいないけど、それはとにかく、これだけ女性が最高の位置にいて、ちっとも女性にとっていい世の中が生まれそうにないのは、なかなかすごいことですよ(笑…えないけど)。

さて、昨日ちょっと書いた、「ハックルベリー・フィンの冒険」の中で重要な脇役、むしろ副主人公の逃亡奴隷ジムが、彼の目から見て語った、同じ時空の物語、『ジェイムス』ですが、とにかくすばらしく面白い。この物語ではジムことジェイムスは、浮浪児のハックというか普通の白人の少年よりはるかに高い知性と知識の持ち主で(主人の家の図書室で、誰にも知られずにたくさんの本を読んだりしている)、実はことばもいわゆる黒人奴隷の召使ことばではなく、教養ある言語をあやつれる。でも、理不尽で残酷な奴隷制度の中では、彼はそのすべてを隠して封印し、愚かで無学なふりをしつづけている。

ハック自身が、無学で非常識ですが、賢くて勘がよく、既成概念にとらわれていないから、そんなジムにある程度気づいているし、それと気づかず、奴隷制度の枠にとらわれない人間同士として仲間として行動をともにしている。
 作者がアフリカ系アメリカ人で女性であることを過度に意識するのはまちがっているが、このジムことジェイムスの「愚かなふりをして生き延びる」感覚は、現代でもいつの世でも、あらゆる弱者に共通するし、女性の場合は特に多いだろう。そういう現実との共通性もあるし、当時の奴隷たちがまったく何の人権も保障されず、残酷に唐突にリンチにあい惨殺される様子を、克明に伝えることもまた、生々しい迫力だ。

後半から終盤にかけては、もとの物語から逸脱して話は広がり、予想もつかない。それもまた、息を呑みながら読み進めずにはいられない。

たださあ、この本の帯やなんかの宣伝文句が、「ハックルベリー・フィンの冒険」を楽しんで白人側の目で読んでいた自分の甘さを思い知らされた!みたいな識者の感想を並べているのが、どうにもこうにも違和感あって、ムカつくのよね私は。これって、宣伝担当の側が何だか基本的にまちがって、ずれてる気がしてならないんだけど。

いったい、「ハックルベリー・フィンの冒険」の何を読んでたんだろう。私はマーク・トウェインの小説を嫌いじゃないけど、ものすごく好きだってわけじゃない。子どもの本で読んだ時でさえ、わくわくしながら、どこかでアメリカの闇を感じて恐ろしかった。そのころからも成長してからも、この小説を読んでいて、白人の視線とか感じなかった。浮浪児で無学な自然児ハックの存在はすでにアメリカの健全な白人社会を痛烈に否定し批判しているし、ジムはあの小説の中で、さらにそのハックにさえ輪をかけて、既成事実や既成概念を批判し破壊する存在だ。

クーパーの「開拓者バンボー」シリーズが、先住民を徹底的に評価し尊敬して描くのもそうだが、アメリカ文学にはそういった、少数民族や虐げられた人々の目を通して、自分たちの文化や文明を疑問視し、否定する姿勢がいつもある。まあそれは、シェイクスピア劇の「道化」やら、日本の狂言の太郎冠者やらとも通ずるものかもしれないが。

ともあれ、「ハックルベリー・フィンの冒険」を安っぽく浅薄な白人少年の冒険物語だと思い、それに夢中になった自分を恥じるなんて言ってるやつは、もう一回目と耳をかっぽじって、原作を全部読み直せ。少なくとも私はあの全編を通じて、ジムという黒人奴隷への侮蔑や嘲笑や冷笑をまったく、かけらも感じない。虐げられ、それに耐え、なお人間としての尊厳を失わず、何気なく口にすることばのひとつひとつが、そのまま白人社会への鋭い皮肉や否定になる、そういう賢者として、彼は描かれている。その位置づけがわからないで、あの小説を読んでいたのなら、言わせてもらえば、相当のバカだ。

今回の「ジェイムス」が、名作で、人の心を打つのは、そこに描かれたジェイムスの姿や心が、原作のジムとまったく乖離していないからだ。ああ、ジムってたしかにこういう人だったかもしれないなと、原作を読んだ人が自然に重ね合わされるように、二人はしっかりひとつになっている。それはまた、「ジェイムス」の作者が、どれだけ原作を愛して理解し、本質をつかんでいたかということも証明している。

私が映画も小説も好きな「めぐりあう時間たち」は、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を徹底的に利用しながら、それにふさわしいだけの原作への深い理解と愛がみなぎっていた。逆に映画「キング・アーサー」は騎士物語に対する何の愛情も尊敬もなくて、私はいまだに、すべての出演俳優の出ている映画を見る気がしない。私自身も、及ばずながらもいいところだが、いろんな作品をもとにした二次創作的なものを書くときは、精一杯の原作への愛情をこめ、理解しようと全力をつくした。

今回の「ジェイムス」にもまた、まちがいなく「ハックルベリー・フィンの冒険」への読み込みと思い入れがある。それをおそらく気づきもしない宣伝担当者か何かが、この新作を、古臭い白人視点の冒険小説を現代の視点で批判したなどという、安っぽい観点で売り込もうとしていることに、激しい怒りと嫌悪感を禁じ得ない。

写真は多分もう今年最後のアサガオじゃないかな。毎朝そう思って見に行くと、ときどき突然咲いてたりするんですけど(笑)。

え、ちょっと、ホークスは今年最後の試合で(あとはCSやら運が良ければ日本シリーズやらあるけど)、ロッテに勝っただけじゃなく、有原投手と杉山投手のタイトルまで、すべりこみでかっさらった模様。柳田選手と山川選手にもホームランが出たらしい。何だかもう、最後の最後まで、えげつないことしてるなあ。まあその分、今年はこれまで皆苦労もしたから、このくらいいいのかもしれないけど。

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カツジ猫