退役軍人
※雪がちらつく中、実家に帰って来ました。凍りつくような寒さの中、家の横にある川の上を大きな青鷺が、悠々と飛んで居ました。
庭にはもう水仙が、星のように白く咲き乱れています。猫のモモの御墓に植えたキンセンカの一つが小さいオレンジ色の蕾を覗かせていたのは嬉しかったです。
古い梅の木にも蕾がふくらみ始めていました。蝋梅は今が満開です。
春にまた若い人達が滞在するかも知れないので、布団があるか確かめましたが、大丈夫の様で安心しました。
でも私の仕事部屋は、もう少し片付けなくてはいけませんね・・・(笑)
※母は先日少しひどい風邪を引いて心配しましたが、どうやら元気になりました。本人はずっと「大丈夫よ」と言っていて、実際どことなく落ち着いて、まったくイライラしている様子がありません。
うまく言えませんが、母は色んな事を良い意味であきらめて開き直って手放して居るのかも知れないと思います。人間の未来とか世界の行く末とかについて、怒ったり心配したり戦ったりするのをやめたのではないかと思います。自分にもうそういう能力がなくなっている事を自覚し認めたのかも知れません。
かと言って、それは全然無気力になったという事なのではなく、むしろ、するべき仕事はしたという落ち着きのように見えます。
母のそばに居ると私は、母に何も言われなくても、大きな仕事をまかされたような気持ちがします。弱い者を救い強い者と戦い平和を守り、よい世の中を作り若者を信じて未来のためにがんばる。そういう、母がずっとしてきた事を今度は私がすることを母は信じていることがよくわかるのです。だからこそ、母はきっと安らかでいられるのです。
母はずっと私を犠牲にして自分自身が戦おうとして来ました。様々な集会や社会活動に参加するために、私が自分の仕事を休んで帰省することを求め、私は「どう考えても私自身が講演や執筆で自分の意見を述べる事の方が、住み良い世の中を作る為には効果があると思うのに」と苦笑し、時にいら立っていました。
それに比べると、今の方がずっと楽です。
ただ、母があれほどに最後まで続けた戦いを、引き継いで行く責任の重さは確実に実感します。世界や若者、地球や人類といった、母が守ろうとしたもののすべてが、私の腕の中に預けられたような気がするのです。
そして、こうなると、あらためてわかるのですが、母が社会的政治的な活動をしていたのは、決して自分自身の淋しさをまぎらしたり充実感を持つためではなかったのです。そうだったら、それができなくなった今、母はもっと虚脱し不幸になるでしょう。しかし、見ていて母は、今、安らかで楽しそうです。そんなものがなくても母は幸福でいられたのです。母は自分のためではなく、他人のためにそれをしていたのです。その事が今私には母を見ていて、よくわかります。
母は戦争も軍人も大嫌いですが、今の母の様子に一番近いのは「幸福な退役軍人」かも知れません。(笑)