過去に聞け
今日はバレンタインデーか。母が生きてて元気なころは、川柳の会のひとやら誰やらにあげるチョコレートを山のように買わされて持って帰ってたし、老人ホームに入ってからは、宿直の男性たちにあげたら、ホワイトデーに立派なお菓子を返されて恐縮したりといろいろあったが、今ではそんなこともなく、友人が少し前に送ってくれた板チョコかじって、静かに過ごしている。
心愛ちゃんが父親に殺された事件、大人の一人として申し訳なさすぎて、どうコメントしていいものかもわからぬ内に日が過ぎてしまった。ひとつには、彼女の書いた虐待を訴える手紙を父親に渡してしまった、学校だか児童福祉局だか関係者の大人たちの行動が、理解不能すぎてめまいがして、何とか理解しようとしてじたばたしてたこともある。「恐かったから」って、それ何だよ。
したらば、このホームページを整理していて、昔書いた文章の中に「地雷を踏む山羊」というのがあって、その中に、自分でも忘れていたが、「だいたい、大学が生き残るためには、よい評価を受けなければならない、なんて考えはじめたら、どんな子どもだって生きていていい、大切でかけがえがない、なんて教育をどうやってできるんだ」みたいな文章があって、あー、案外そんなことも関係してるのかなあ、今の世の中は、と、ちょっと思ってしまった。自分の文章だけど、引用しとく。
その後、学内でもどこでも「評価されるためにはどうすればいいか」って感じで、皆が目の色かえて、あ~だこ~だと話し合いとかしてたけど、私はちっとも、のれなかった。
だって私はすごく恐かった。そんな風にものごとを考えるのが。考えるくせが自分につくのが。これでも、教育者ですよ。先生を養成する大学にいるんだよ。学内には「障害児教育」とか「福祉教育」なんて課程もあるんだよ。先生はどんな心がまえで生徒に向き合うかって、そういうことを直接教えるのは私の仕事じゃないけれど、やっぱり、そういう大学にいるのだもの、意識しますよ。学生の前で、どんな生徒でも見捨てないで、大事にして、心をこめて育てていこうってそういう気分に見ていて彼らがなるような、せめてそういう人間でいたいって。
それが、人に評価されなきゃ、落ちこぼれないようにしなきゃ、役にたたないものはどんどん切り捨てなきゃ、生き残るためには何でもしなきゃ、そんな気持ちに自分がなったら、どの面さげて、学生に言うのよ。どんな子でも大切にしましょうなんて。落ちこぼれのない皆で助け合うクラスを作りましょうなんて。いじめをなくしましょうなんて。どんな人にもどこかいいところはあるのだから、そこを見つけましょうなんて。
誰にでも生きる権利はあるのですよなんて。
それを心から言えるために、いや、言わなくたって私を見てるだけで、私と話すだけで、学生がそういう風に感じてくれるためには、私自身が、そういうことを信じてなければだめでしょう。勝ち残ろう、評価されよう、じゃなきゃおしまいだ、そのために都合の悪いものは切り捨ててしまおう、なんて、そういう考えが自分を侵食するのが、自分がそんな感覚に染まるのが、汚れるのが(とまで言うぞ、もう)、私はほんとに恐かった。それは教育者としての私の破滅だと思った。 はっきり言って、私は今、学内で「うちの大学が生き残るためには、世間に評価されるためには」と真剣に考えたり発言されたりする先生方、特に教育関係の先生方は、このことをご自分の中で、どうやって始末つけ、整理されているのか、ほんとにほんとにほんとに聞きたい。
まあ、これ以上追いつめられる前に私は定年退職したけど、残っていたら、今ごろどうなっていたのかなあ。
首相は、憲法に自衛隊を明記する理由として、また新しいことを言い出して、「お父さんは憲法違反なの、と子どもに聞かれる自衛官がいる。そういうことをやめさせないと」とか言って、そんな子どもが本当にいるのかと聞かれたら、「私が嘘をついているというんですか」と、えらく息巻いたらしい。
あの剣幕じゃ、きっと嘘なんだろうと、いろんな人が冷笑してるが、まあそりゃ日本は広いし、自衛隊員も多いからね、探したらそりゃそんな人も一人ぐらいはいるかもしれんよ。
問題は、くだらんテレビ番組やヘイトスピーチで、中国や韓国の悪口言われたからって悲しんでいる、日本在住のそれらの国の子どもとか、消費税が上がったら生きていけないと言っている高齢者とか、保育所に子どもが入れてもらえなくて絶望してる母親とか、別に探さなくてもいっぱいいるのはわかってるのに、そんな声には応えようともせず、聞こえないふりを決めこんどいて、いるかどうかもわからない自衛隊員の子どものためには、憲法変えるとか、アンバランスもいいとこで、さすがに、通用しないんじゃないの。
庭の梅が小さなつぼみを二つ三つつけました。
うれしくて、いろんな人に言ってまわったら、「うちはもう満開」「うちのはもう散ってしまって」とか言われて、ちょっとがっくり。
いいや、今からゆっくり、じっくり、楽しむんだから。
枯れた花を捨てることにしている一角に、芽を出して伸びて栄えた粟が、枯れて、かさかさの大きな葉っぱが、カツジ猫の乗っかる棚の上にかかっています。がさごそ音をたてるので、カツジ猫はすっかり夢中になって、押さえたりはたいたりして、遊ぶのに余念がありません。