過去も未来も霧の中
髪のカットに街に行きたいし、博多座では3月の文楽の公演のチケットを売り出してるし、「ダウントン・アビー」の映画が2月には公開されるらしいし、食指はやたら動くのだけど、コロナの蔓延のスピードが何だかものすごいもんなあ。3万人越えだってよ。ここまで家にこもっていたのに、最後の最後で(いや最後じゃないかもしれないが)感染してしまったら、それこそ「雨月物語」の「吉備津の釜」の正太郎が、月光を夜が明けたとまちがえて、早まって外に出て、とり殺され血まみれのもとどりだけが軒に残ってたみたいな話になっちまうじゃないか。ここまで、がまんして来た甲斐がないってもんで。
そう言えば、「雨月物語」の漫画古典シリーズって文庫本を衝動買いして、ななめ読みした。何と木原敏江さんが描いていて、なつかしーい。「菊花の約(ちぎり)」他四篇を収録してあるが、よくできていた。
節分グッズを買いちらかした中で、一番大物の陶器の鬼が今朝届いた。けっこうな迫力である。窓辺においてみている。例によって、外を向かせることにしたのだが、家の中から見ると、後ろ姿が妙によろしい。
ただ、外から窓越しに見ると、ちょっと何だかよくわからないという問題もあるな。まあ、それはそれでいいけど(笑)。
たまっていたポイントを使ったので、結果としてそんなに高い買い物ではない。
一方、ひいらぎいわしの紙細工が、また一つ届いたけど、これはまた何だかあまりにも素朴でかわいすぎて笑ってしまった。一応、上の家の玄関のドアに貼りつけている。魔除けになるかな。
隣家が空き地になったので、夜に外に出て見ると、びっくりするぐらい遠くまで家々の明かりが見える。整地された空き地では、野良猫がさっそくトイレ中だった。不動産屋さんには気の毒だけど、あれだけ立派で快適なトイレ空間があるのなら、しばらくは、うちの庭には野良猫はトイレに来ないかな。甘いかな。
災害の時に、ペットの猫とかをどうするかという対策のページをいくつか見たけど、こんな大荷物準備して避難所に行けってか。高齢者や障害者には、絶望とあきらめと覚悟しか与えないアドバイスだな。こういう対策をしている自治体もあるみたいだけど、たしかこのあたりには、現地の動物愛護団体があったから、そういうところの活躍もあるのだろうか。
どちらにしても、「無責任な餌やりはやめて、管理できる数を飼おう」という警告にはなるかもしれないけど、もともと避妊も去勢もしないで、やりっぱなしにエサやる人は、災害の時に、エサやっていた動物を見捨てるぐらい何とも思ってないだろうからなあ。ブレーキにはならんか。
それでまた思い出したが。
「アンネの日記」のアンネ・フランク一家が隠れ家にいたのを見つかって収容所に送られたのは、密告した人がいたからで、FBIや何やらが今回その人を確定したらしい。いろいろ感想はあるけど、さしあたり私が驚いたのは、Yahooのニュースのコメントや何かで、「今さらそんなこと調べてはっきりさせなくても」「こういう犯人さがしはよくない」みたいな意見や感想がけっこうあったことだ。
何だかなあ。NHKのラジオをつけっぱなしだと、日本の今後とかいう番組で、コロナでも経済でも、よく出て来るのは「日本(政府や国民どっちも)の弱点は、予測できる危険に向き合おうとしないで、『そういうことは起こらない』と思考停止して何も対策をしないこと」という指摘だ。
事態や現実を確認した上での放置でさえなく、とにかく目をつぶって「ないない、あるはずない」と片づけてしまう。そうやって、日常や社会の問題や危険を押しやって見ない感覚というのが、私は本当にわからない。見て、確認して、その結果起こることは、また考えるとして、とにかく向き合わないでいてどうするよ。
過去も知りたくない。未来も考えたくない。すべては曖昧模糊な霧の中にそっとしておきたい。言っとくけど、歴史のかげの秘密を掘り起こすのに興味津々の江戸時代の歌舞伎とかを見ていても、こんなのは別に全然、日本人の特性でさえないと思う。公私ともに、どうしてこんなにヘタレな精神が蔓延定着したんだろう。