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遠い風景のように。

◇小池都知事が朝鮮人虐殺への追悼文をやめて、批判されるという事態が起こらなかったら、私はこの日が虐殺の日ということを思い出しもしなかっただろう。そういう点では、ありがたいことだった。

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私はこの事件について何も知らないと言っていいぐらい、ちゃんと何かを読んだこともない。
それでも何だかよく知っているような気がしつづけていたのは、まだ本当に小さい子どもの時に家にあった、「文藝春秋」の小説を読んだというか見た記憶のせいだ。
正確な年代はわからない。作者の名も題名も何一つわからない。
そもそもどんな話の内容だったかも覚えていない。読んでもわかっていなかったかもしれない。そのくらい子どもだった。

ただ、その小説の多分ラストで、路上で朝鮮人たちが町の人たちに囲まれて虐殺されていた。
そこには、多分社会主義者もいて、その人たちは日本人だったのかどうかよく覚えていないが、とにかく一緒に殺された。
死ぬ前にその人たちは「皆、歌え! インターを歌え!」と言って、殺されながら声をそろえて「インターナショナル」を歌うのだった。

彼らが皆殺されて、その死骸が転がって、夏の陽ざしが熱くその上に照りつけている、というのがたしか最後の場面だった。

◇そんな風にして断片でしか覚えていない、もう絶対に二度とそれが見つかることはあり得ない、小説やドラマや映画が、私の中にはいくつかある。これもその一つである。
当時は「文藝春秋」が、そんな小説を載せたのかと驚く人もいるだろうが、そのころ家にあったぶ厚い雑誌で小説も載っていたというと、やっぱりそれしかなかったはずだし、記憶に誤りはないと思う。同じぐらいの大きさで、あとあったのは「婦人公論」だったが、多分そっちじゃない。

私だけではないと思うが、実体験の少ない子どもは、そうやって読んだ場面や光景を、ほとんど現実と変わらないほどの強さと鮮やかさで心にやきつける。
大人の小説もよく読んでいた私は、残酷で理不尽な場面の描写には慣れていたから、殺される無実の人たちの無惨な姿は、特にショックでもなくトラウマにもならなかった。ただ、そのじりじりと灼けつく陽ざし、襲いかかって無抵抗の人たちを殺戮する普通の日本人たち、殺戮の後の静寂、などは、まるで現実に見たかのように、刻みつけられて覚えている。
関東大震災でたくさんの朝鮮人や社会主義者が、デマを信じた一般の人から虐殺されたと聞くと、まるで自分がそれを見ていたかのように「読んだ」記憶の風景が、ほとんどもう音や匂いもともなって、ありありと、まざまざと、よみがえる。
考えようでは恐いことだな。でも小説や文学には、特に子どもに対しては、そんな力もあるのだと、そのことからも私はよくわかる。

◇ちなみに、その時に歌われた「インター」なる歌を私は聞いたことがなかった。
他の外国のいろんな小説でも、ときどき皆が歌っていて、「立て、飢えたる者よ」の歌詞も知っていたが、メロディーは知らなかった。
実はメロディーもどこかで聞いて知っていたのだ。だが、その二つが結びつかないままだった。

大学に入って、自治会活動などをして、共産党が主催する講演会や大会にも行くようになったある日、会場で「ではインターナショナルを歌いましょう」と司会者が言って、皆が合唱した。
そのとき私は、よく知っていた歌詞のメロディーが、やはりどこかでよく知っていたメロディーだったことを初めて知って、「あしながおじさん」のジルーシャが手紙の相手と恋人が同一人物だったと知ったときのような驚愕に、しばらく声が出せなかった。

◇虐殺が行われた暑い街路に幼い私を連れて行ってくれた、あの小説ともう一度めぐりあうことがあるのだろうか。
殺された人々を、ずっと身近な知り合いのように長い年月思いつづけた出発点になった、あの小説と。

子どものころ、手当たり次第に本を読み、若いころにはやはりむちゃくちゃ映画を見た。気になりながら何かのはずみで、読まない見ないままになった作品が少し前から気になり出して、つい死ぬ前に目を通しておこうかなという気になる。そうやって「失われた時を求めて」「ガザに盲いて」などを読み、「球形の荒野」や「ラスト・エンペラー」も妙に見たくなる。さっきは5000円もする古本で、講談社世界文学全集の「ローランの歌」を注文してしまった。うーん、これもまた一種の「終活」なのでしょうか。

◇後期の授業のテキストを作ろうと思っていたら、まだ残部があって、プリントで補充すれば大丈夫のようだし、田舎の家の物置きを住宅用に改造しようかと思っていたら、構造上無理とわかったし、お金も時間もまるっきり減らないですむのがうれしい。これはもう、遅れに遅れてる本来の仕事を一目散に一心不乱にしろってことだな。がんばるぞ、さあ来い、九月(笑)。

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カツジ猫