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野球と国文学

困ったな(笑)。
大道典良「日本プロ野球育成新論」の感想とか書きたいんだけど、あまりにも、しょうもないことや関係ないことばっかりな上に、時間がないからこまぎれになって、短い話が、他の話題とごちゃまぜになりつつ、十回ぐらいも続くという、なんか最悪の結果になりそうだ。
ま、いっか。

喜瀬氏の「ホークス3軍はなぜ成功したのか?」もとても面白くて勉強になったけど、これは現役コーチの方のお話だから、また全然ちがった意味で、すごく刺激的だった。

まじめな話から書いておくと、指導や養成というものが、体罰や暴力を使わないで相手を精神的肉体的に尊重しながら行うというようになって来ている状況が、非常によくわかった。

でも、それは、他の分野でも、それこそ国文学でもそうなんだけど、指導者を信頼して自分をまかせて作り変えられる、ってことが、どうしても必要ではあるわけで、そこのかねあいは、実に難しい。

これ、私の講演の「赤毛のアンと若草物語」や、エッセイ「カルチャーセンターの周辺」などにも通じるのよ。プロを養成するためには、アマチュアの楽しさとはちがった指導が必要だし、私は自分が正直言って、それをつかめたとは思えない。

私もびしばし指導して学生を鍛えるような指導はしなかったし(菱岡憲司『小津久足の文事』あとがきによると「演習と言うのは軍事演習と同じなので、気を抜いたら殺されると思いなさい」と上野洋三先生は言ったとか)、自由にさせつつ、必要な指摘はするみたいなやり方をして来たけど、それは今思うとどうだったんだろうね。

ホークスというチームを見ていて何となく、昔ながらのやり方とはちがう指導や上下関係が生まれてるということは感じていたけれど、他の球団が全部そうではないだろうし、ホークスの中でも、それはまだ手探りだろうし、過渡期なんだろうとは思う。

厳しいトレーニングや叱責は当然あるのが、読んでいてもうかがわれるし、そういうのはなくすわけにはいかないだろう。でも、昔だったら当然のスパルタ式の一律の練習というのは、かなり変化して来ている。

クロマティ選手の「さらばサムライ野球」では、巨人の練習が画一的で厳しくて、江川なんかはそれを上手にサボっていたということが書いてあった。あれはずいぶん昔の時代で、今はもう、どこもそうではないのだろう。少なくとも、ホークスの育成の話などを読んでいると、まるでもう、そういう感じはしない。

「侍の名のもとに」の感想でも書いたが、稲葉監督の選手への丁寧な態度や指導に私はずいぶん驚いた。その前か後か忘れたが、本多コーチが野手の練習で「同じことをさせていたら退屈するから」と言って、ゲームのような練習を工夫しているのを見たときも、そこまでサービスするのかと衝撃だったし、多分どちらかというと、昔ながらの厳しい指導者の気配を残すのじゃないかと思える今宮選手でも、自主トレの時に同じようなことを言って、楽しい練習を工夫していたのに、そういう発想が自然に出てくるのか、このチームの指導者はと、時代の変化を強く感じた。

大道氏は、一度アメリカに行ってコーチとして勉強していて、その時に日本とはまったくちがった、選手の自主性を尊重して必要以上の口は出さないという指導法を学んだのらしい。現代の若者にふさわしい、そういった指導法は、そのようにして根付いて広がって行くのだろう。

でも、そこはやっぱり過渡期の難しさみたいなものはあるよね。
著者は全然受けをねらってるのではないだろうが、この本を読んでいて、あっちこっちで私はかなり笑った。

前に書いた石川柊太選手の痛みに弱い云々の話もだし、ダイエー時代の弱小チームだったころ、それまでは負けても皆平気で帰りのバスでは、吉本新喜劇のテレビ見て笑いながら今夜のメシは何にするかなんて話していたのに、新監督の王が負けたら苦虫をかみつぶしたような顔で乗ってくるので、吉本を見るどころではなく、皆お通夜のようだったという話も、想像すると何かもう、笑いがとまらない。悪いんだけど、ほんとにもう。

王については最後にとっておきのエピソードでしめたいとか言って紹介してる話が、今でも会うと王は大道氏に毎回「走っとけ」と言うので、おそるおそる「もう引退して、今はコーチです」と言うと、王は「そうだったなー!」と笑うと言うのだが、もう、王も楽しいけど、この話で最後をしめる大道氏も、やっぱりひょっとしたら、ものすごく面白い人なのだろうか。

それで、実はこれもちょっと笑いそうになった一つで、過渡期の難しさについてだけど、私がびっくりしたのは、周東選手の打撃について、「ホームランをねらいたい気持ちはよくわかるんだけど、内野安打をねらうべき」ということを、かなりはっきり長く書いているのに、え、もしかしてこれ、本人に直接言ってないの?

「私がはっきりそう言えばいいのだが、やっぱり本人が長打を打ちたい気持ちでいるときに、はたがそう言っても」とか書いてるから、言ってないのかしら。アメリカ式ということもわかるのだけど、何という気のつかい方。たかが23歳の若者に。あ、口がすべった。
それもいいよ。でも本には書いちゃうんだ(笑)。ここまではっきり。

「周東くんは読んだのかなあれを」と思いながら見ているのかしら。それとも「こんな本書いたから」とバレンタインのチョコみたいに、そっと本を渡したりするのかしら。いかんいかん、こんな妄想するなんて私は三浦しをんかい。

いやつまり、どこまで選手に関わるかという今どきの難しさが、ここには現れていると思うのですよね。つくづくもう。時代は変わって、流れて行ってると本当にそう感じます。そういう点でもこの本は、現場の人にしか語れない、貴重な証言だなって気がする。

まだいろいろと書きたいことがありはするけど、何とか一回でまとまったかな。ほっ。

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カツジ猫