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長崎の声。

◇もともとわが家は一族皆長崎出身で、祖父母の一家は無事でしたが、親戚は大勢原爆で亡くなっています。母が下宿していた家のおばさんおじさんも亡くなっているし、夏にうちの田舎に避暑に来ていた、親戚のかわいい男の子二人も死んだらしく、母はときどき「あんなにかわいかったのに」と、嘆いていました。
親戚の男性の一人は三菱重工のえらい人で、ガラスの破片で血まみれになって死にかけていたのを、部下の若い人たちが回りに立って踏まれないようにしてくれて、汽車で市外まで連れ出してくれたそうです。その人は助かって戦後も元気でしたが、回りに立って守ってくれた若い部下たちは、その時はけがもなく元気だったのに、やがて皆、原爆症で亡くなってしまったとか。

ネットで見ていたら、どなたかが、「比べるものじゃないことはわかっているんだけど、今日の長崎市長と被爆者代表の安保法案への明確な批判と、それに対して起こった拍手を見ていると、広島出身の者としては、広島はもっとしっかりしてほしいと思ってしまう」みたいなことを書いていて、苦笑しました。私もまさに、こんなこと比べるもんじゃないよなあと思いながらつい、「長崎はどうなんだろうなあ」と思いながら見てしまうので、駅伝競走や都市対抗野球じゃあるまいし、と気がとがめるのです。

「怒りの広島、祈りの長崎」ということが昔は新聞などでも書かれていて、激しい抗議や強い怒りは広島に比べて長崎はむしろひかえめと言われていました。
実際、長崎は普通に街を歩いても、何だか哀しいほどに優しい柔らかい感じの町です。その穏やかで温かい雰囲気は、種類はちがうけれど沖縄ともどこか共通します。私はよく友人と冗談半分に、「大分県とか福岡県とか、ああいうタフでパワフルで荒っぽいところには災難はふりかからないのかもしれない。沖縄や長崎や、ああいう、胸をしめつけられるぐらい優しい場所に苦しみが訪れると思うと、やりきれなくなる」と言ったりしたものでした。

その沖縄が、安倍政権をゆるがすような怒りに燃え、長崎の優しい声が、今日のような強い抗議をつきつける。受難を静かに耐えつづけた人たちが、同じ穏やかさで示す怒りと抗議とに、どれだけの重さがあるか本当にわかってほしい。いろんな人に、いろんな意味で。

◇市長さんの気負わず落ち着いた話しぶりも心に響きましたが、被爆者代表の方が、ややもつれがちにさえなる口調で、それでも一言も聞き取れない部分はなく、しっかりと話された内容に、原爆投下の瞬間から今日までの長い時間が私にまで襲いかかってくるようでした。

原爆を描き続けた作家原民喜は、戦後初めて日本が戦争にかかわった朝鮮戦争のとき、遺書も残さないまま鉄道自殺しました。中井英夫が「虚無への供物」で書いた通り、悲惨な死は、その死が何の教訓も残さず、過ちがまたくりかえされたとき、生き残った人々の心を破壊します。今、日本が平和憲法を踏みにじろうとしている事実の持つ意味は、被爆者の人たちにとって、きっと私などより数十倍も大きい。

市長と被爆者代表の方のあいさつを、紹介しておきます。

http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html

↑「賛同」ボタンも、よろしければぜひ。↓文字でも紹介しておきます。

 長 崎 平 和 宣 言
 
 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。
 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを1日たりとも忘れることはできません。
 
 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。
 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省のなかから生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。
 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。
 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。
 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。
 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。
 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。
 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。
 
 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。
 NPT加盟国の首脳に訴えま

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