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限りある資産。

◇このところ、ちょっと無理をすると風邪を引くし、めまいは一応治まっているけど、油断はできないし、疲れて運転すると昔のように「あ、眠くなったから休もう」とかじゃなくて、眠くなったという意識もないまま、気がついたらすうっと意識が遠のいていたという恐ろしい状況だったりするので、限りある体力をせいぜい温存するようにしている。

ところがそれで困るのは、田舎の実家に帰らないで、こちらの家にいる時に、庭の草取りや家の掃除や夏物の衣服の入れ替えや、しなくてはならない、したいことが山ほどあるのに、やったら疲れると思うから、したくてもできない。必死でのんびりしているが、これがもう、めちゃくちゃストレスがたまってしかたがない。

何しろ仕事ができないから、庭は荒れるし家は散らかって片づかない。こうなって見てはじめて気づくが、実家の片づけで重労働をしてへとへとになっても、この家に帰ったら、きれいで片づいているから安らげたし、次の仕事に立ち向かうパワーも生まれた。それが、汚れて何もかもが雑然とした部屋の中では、今朝の書類なんかもそうだが、なくなったものをさがす気力さえ起こらない。(あ、結局貸金庫に入っていたから、ご心配していただいた方がおいでなら、ご安心下さい。)

◇そうやって、温存した体力と気力と知力を、タマゴかダイナマイトでも運ぶように、そうっと大切に抱えて田舎の実家まで車を飛ばすのだが、折り悪くラッシュにひっかかったりしようものなら、結局、草取りも掃除も料理も片づけも歯をくいしばって犠牲にして、ためこんでいた体力を、渋滞をのりきるために消費するようなことになって、もう脱力し血圧が上がる。おかげで実家に着いたころには疲れてしまって、予定していたようには仕事が進まず、最初の予定をいろいろと変更しながらやっていても、結局やる気にならないまま、深夜になって引き上げることになり、結局私は往復の渋滞や深夜の運転を味わうために、さまざまなことをすべて犠牲にしたのかと思う虚しさがはんぱない。

実家に泊まればいいのだが、別にカツジ猫をおるすばんさせるのがかわいそうというのではなく、結局はこちらの家に帰った方が、いろんな意味でくつろげるのだ。実家はもはや仕事場を通り越して戦場と化していて、まあそれも昔だったら、荷物やごみの間で毛布にくるまってぶっ倒れて寝てもまったく平気だったのだが、最近ではそういうことをしたら翌日どうなるか、まったく自信が持てない。案外どうもならないかもしれないが、実験してみる勇気はない。

◇そうまでして必死で片づけなくても業者にまかせてしまえばいいと、たいがいの人は言うであろうが、これがもう、なかなかそうもできない、とんでもないものが出てくることもあって、そういう事情をいちいち説明するわけにもいかないから、そういうことを人から言われるたびに、えへへと笑ってごまかすだけでも、これがまたストレスがはんぱない。

私はこれまで、人生のいろんな局面で、それこそ恋でも政治でも学問研究でも、「どうして私を信じてくれない」とひそかに強いため息をつく状況に、一番煮詰まったぎりぎりの時点で遭遇した。そして、親友、恩師、教え子の中に、無条件で私を信じて、やりたいようにやらせてくれた人たちがいたことは、もう信じられないほど最高の幸運、強運だったと思っている。この人がこうするからには、それなりの理由があり、この人のしていることは他の者の基準では測れないし、自分の基準でも測れない、そしてこの人はきっと成算があってやっていて、おそらくかなりの確率でちゃんと成功するはずだし、失敗してもそれなりのものは得るはずだと、理解し信じてくれた人によって私のこれまで得たものは成り立っている。

まあしかし、そうしてくれた人たちの中には、私を見ていて、そのように信じてくれた人もいるであろうが、もともと私でなくても誰でも、そのように信じてやりたいようにやらせる人というのも、いたのかもしれないなあ。私自身もどっちかというと、そうだから。

◇そして私のこれまでの人生で、一番苦い、深い、失望の数々というのは、失恋でも敗北でも失敗でもなくて、むしろその状況の中で、私のことをよく理解し、支持してくれている(かもしれない)と思っていた人たちに、「ついていけない」「あなたは狂っている」というような態度をとられたことだった。その人たちに失望するというより、私自身がそこまで信じさせる力を持っていなかったという事実が私を一番、大げさにいうと、破壊した。
だから、「ロミオとジュリエット」の乳母の最終局面での裏切りとか、今でも見ていてずしんと来る。オリヴィア・ハッセイのジュリエットが、あの時乳母に見せた冷たく厳しい表情も忘れがたい。どうせ今見られなくなっているのをいいことに書いてしまうと、旧板坂耀子研究室のどっかにある映画「トロイ」のファンフィクション「疾走」で、たしか私はその心境を、ブラッド・ピット演じたアキレスに託して書いたはずだ。英雄が、英雄しかできない偉業をめざしているとき、その達成をなぜ信じようとしないのか。もちろん私は英雄ではないが、人は誰でも、それぞれの人生で英雄になり偉業をなしとげる瞬間が一度ならずある。誰かがそれを疑わず支持してくれたら、更にその確率は上がる。英雄や天才というのは、たまたまそういう人を身近に持てたというだけの人かもしれない。

◇しょーもない雑談続きで書いてしまうと、あいかわらず、だらだら見てる海外ドラマの「LOST」だが、あれって一応群像劇でもあるから、私の「本命・アナ馬・対抗馬」理論にやっぱりあてはまるところが多いのだが、ものすごく特徴的なのは、リーダーがジャックとして、それを無条件で信じて輔佐して助けて常に味方する存在ってのがいないのだよねえ、あのドラマ。位置から言ったらケイトだろうが、とてもそうは言えないぐらいものすごく不安定だし。そういう点じゃ画期的で(笑)、リーダーには実に気の毒なドラマではある。現実だって、あそこまでリーダーが孤独な状況ってなかなかないぞ。安倍晋三は別の意味できっとめちゃくちゃ孤独だろうがよ。

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カツジ猫