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静寂という至福。

◇最近、読書するか海外ドラマ見るか迷って、しばらくテレビやラジオを入れないでいる時があります。仕事がのって来ると音楽を流したりするのですが、まだスタートが切れないで迷っている状態のときとかです。

そうすると、雨がしとしと降っていても、今日のように明るいぽかぽか陽気でも、家の回り一面がしーんとしていて、遠くたまに聞こえる車の音、近くの林から聞こえるウグイスの声以外、ほんとに何も聞こえない、この静けさに、信じられないほどの幸福と満足を味わいます。

私の田舎の実家は川の側にあって、いつも川の水音が生活の中に重低音のように響いていました。それはまるで大地の鼓動を聞くようで、とても快かったし、少し離れた国道を行き来する車の音、その向こうの鉄道を走る昔は汽車今は電車の音や汽笛も、邪魔にならない程度のやわらかい低さで、人間の営みを感じさせ、やっぱりとても幸福な気分になるものでした。

でも今のこの住宅は、一応は市街地で近くはすべて人の住む住宅に囲まれています。それでこの、自然で穏やかな静かさは、実になかなか味わえない至福だろうなと思わずにはいられない。壁に隔てられているのではなく、自然に人が入り組んで暮らしていて、この静寂は。

私はカレーライス殺人事件の林真須美被告にどこかで同情するくらい、近所づきあいや地域の交流は重荷にもなりかねないと感じるのですが、どうやらこの地域一帯の皆さんは、そこそ私と同様の感覚をお持ちなのか、過度な連帯感は強いることなく、それでもちゃんとそれなりの交流は続けているのが立派だなあと感心も感謝もします。
そして、そういう中で私も一応、周囲の十数件の家の家族構成や家庭の事情はある程度は知っていて、それでこの静けさがあるということは、皆さんそれぞれ無事ですごしておられるということもわかった上でのことなので、そこがまた何とも言えない幸福感につながるのだと思います。

この安らぎと充実感を抱きながら、それとまったく裏腹な朝鮮半島と日本の情勢に、もうまるで夢を見ているかのような危機感と絶望感を味わうというのも、ある意味すごく難しいというか、心も身体もばらばらになりそうな苦痛と疲れを感じます。

◇最近仕事が忙しいのもあって、親しい人たちともほとんど会えていないのですが、ひとつには会っても何を話していいのかわからない気がするから、この状況がかえって救いのような気がしてしまうのでしょう。
日常のことを語るのは楽しいし、そういう話は山ほどもあります。しかし同時に、世界や日本の情勢は、もう本当に腐っているとしか言いようがなく、教育勅語もわが闘争も教材に使っていいと公式に認めるような政府の下にいることが私には耐えがたいし、それを平気で楽しい話をしていられる自分にも他人にも、悪い夢の中にいるような無気味さしか感じられません。

結局いつの時代にも人はこうして、さまざまな悲惨や暴虐や愚鈍に目を閉ざして生き、自分がそこにひきずりこまれるまで、狂気のような踊りを踊りつづけるのでしょう。

この静かな明るい朝、幸福に包まれながら私は押し寄せてくる無気味な巨大なものの足音にどこかで耳をすませています。
黙っていようか、目を閉じて死んだふりをしていようかと、ふと思います。それで死ぬまで逃げ切れるかもしれないと、秒読みをしている自分がいます。母が死に、愛猫のキャラメルもとうに死んだ今、私は身軽で自由になって、その分無責任になっているのかもしれません。人類への愛が薄らいで来ているのを感じます(笑)。

◇今の自分に一番欠けているのは、人を不愉快にする勇気かもしれないと思います。
真実を告げたり警告を発したり、何かを訴えたり主張したりして、人を傷つけたりいやな顔をされたりいい気分をこわしたりするのが、そして自分も疲れて傷ついて、それでも相手や世界や未来を愛する力が、だんだん少なくなりました。骨密度や筋肉の低下以上に、これが私の老いの顕著な特徴だなとあらためて感心しています。

私はそれなりに人に優しくもできる。多分、快くもできる。
でもそれは、結局はもっと厳しい鋭いことを伝えるための道具や隠れ蓑にすぎなくて、それを言わないでいいのだったら、ただもう相手を愉快にし、自分も幸せになるためだけだったら、そもそも自分のそんな優しさも心遣いも私は好きじゃないなと思う。
私の中にある、どうしても譲れないもの、守りたいもの、それは自分の尊厳でもいいし、それにつながる世界の平和でもいいし、とにかく、それと一体化してこその私であり、その私の冷たさや厳しさや荒々しさを理解してくれなくて、ケーキの表面だけなめにげするような人だったら、私は別に必要じゃない。

ていうか、私は最近、九条の会のビラにしろ、日常の人とのつきあいにしろ、ほんとに言いたいことを言い、伝えたいことを伝えるために、どうしたらいいかという、いい意味でのテクニックを考えるのに疲れているのかもしれません。
甘えんじゃねえよバカてめえ、いつまでそのまま生きてられると思ってんだよ、そのまま死ぬか滅びるか地獄の苦しみ味わうまで目をふさいでるんならそれでもいいさ、ただそうなった時、ひとっことも愚痴はいうなよ嘆くなよ反省さえもするんじゃねえぞ、黙ってくたばれ、えらそうな被害者づらとかするんじゃねえぞ、とか言えたらいいなあ、その内言いそうで恐いけど(笑)。

◇昨日「ラ・ラ・ランド」の映画を見にいったら、どっと疲れて、まだ体調は万全ではないと思い知らされました。映画は楽しくてきれいで、でも苦くて切なくて面白かったです。
この映画館の近くにはペットショップがあります。カツジ猫の首にぶらさげてやっている迷子札が最近すりへって字があまり読めなくなっているので、新しい迷子札を作ってやろうと立ち寄ったら、首輪にプレートをつけるタイプのがあって、そっちを注文して来ました。一週間ぐらいで仕上がるそうで、「ムーンライト」を見に行くついでに引き取ったらちょうどいいかな。

カツジ猫と言えば、先日洗濯物をとりいれて、ベッドの上においていたのを、夜になってたたもうとしたら、ふきんの間から小さいヤモリが目をきょろきょろさせていました。
外に逃がしてやりましたが、どうもあれは、カツジが庭でつかまえて連れてきた獲物だったらしい。でないと入りこむわけないし、あとでそのへんをさがしていたし。ごめんね、少しは狩りもできるようになったのかい。そう言えばこの前玄関にひからびたヤモリの死骸があったけど、あれもひょっとし
てカツジのしわざなんだろうか。

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カツジ猫