風の音を聞きながら
大分の友だちがゆうべ夜中に電話して来て、台風が恐かったとえらい騒ぐので、「ええ? 大したことなかったやん」と思ったものの、ちょっと気になって窓ガラスでも割れてないかと今朝二階に上がってみたが、何事もなく無事だった。ついでに上等の服に虫除けのカバーをかける、ずっと後回しにして来た作業をちょっとしたら、汗だくになり、早々に引き上げた。少々暑くても風通しはいいし、二階はすごく楽しい、いい場所なんだが、なかなかゆっくり過ごす時間がとれない。
その二階の窓から裏の崖の上の宅地をみると、もう何軒も家が建ちはじめている。下の庭から見上げると、増えていく屋根が、何だか進撃の巨人のようでシュールだ。
台風の夜のひまつぶしに、もう一年以上放っていた文庫本二冊の「舞踏会へ向かう三人の農夫」を読み上げた。途中でかなり間があいたりしたから、わかってないところもあるかもしれないが、いろいろめちゃくちゃ面白かったし、刺激的だった。デトロイトの駅に飾ってあった写真を見て、気になってその背景を探るみたいな展開がまず私にはよくわかる感覚だったのだが、途中のものすごい脱線と雑談は、周木律もだが、小林エリカや、大西巨人も思わせて歴史や世界のるつぼに投げ込まれたようだったし、それにどこやら何やら、私の「断捨離」シリーズと重なる雰囲気もいろいろあって、満腹した。
だとすれば記憶とは、消え去った出来事をうしろ向きに取り戻すことだけではなく、前に向けて送り出すことでもあるはずだ。
この一文なんて、ほんとに、「断捨離」シリーズの巻頭に引用したい。次々作あたりでするかもね。
ついでに、この前適当に買ってきていた中島京子「樽とタタン」と、能町みね子「そのへんをどのように受け止めてらっしゃるのか」も朝のベッドで一気読み。前者はどこか暗くて不気味で哀しくて、でもそれが楽しい。後者はもう、ものすごく勉強になって力づけられた。しょうもないゴシップでも、きちんと実は検証し、調査し、論理や倫理をつくして語っているのが、どういうか、こちらの襟も正させられる。安倍内閣やマスメディアの救いようのなさが、あらためていろんな角度から浮かび上がるのもうならせられるし、一方で芸能人などの軽薄さやしょうもなさに対しては、厳しくてもどこかに大どかな優しさの目がある。弱者と強者への守るべき人間としての姿勢が、きっちりとゆらいでいない。
それにしても地元の私が知らなかったが、福岡県警の性犯罪防止のサイトは、いろいろあれこれ、勘違いと女性蔑視が満載の本当にひどいものなのだな。リンクしときたいけど、何かもう見るのもいやだ。
ところで、この写真も台風のささやかな被害。上の家の玄関に下げている「下の家にも声をかけて」と郵便屋さんへのお知らせの札、縛って固定しとかないとと思って忘れていたら、やっぱり風でばたばたしたようで、左上の角の塗料?が少しはがれていた。まあこのくらいなら、そのまま使ってもいいだろう。