ぬれぎぬと文学(未定稿)11-終章 死刑台と玉座
やっかいな感覚
私には我ながら困ったくせがある。
死刑台の上にいる人、鎖につながれて牢獄にいる人、貧乏で食べるものもなく死にかけている人、皆に悪口を言われて孤立している人、ひどい障害を持っている人、狂気に陥っている人、要するに何かとても不幸そうな人を見ると、理屈以前に肌にしみついた感覚で「きっと何かとても立派なことをした人にちがいない」と無条件に尊敬と信頼の念を抱くのだ。
その一方で、高い地位にある人、世間から評価される人、皆に好かれて友だちの多い人、大金持ちで優雅な暮らしをしている人、健康で元気で美しくてばりばり仕事をしている人などを見ると、「どうせろくなことをして来なかったんだろう」あるいは「人間としてするべきことをちゃんとして来なかったんだろう」と本能的にかすかに軽蔑してしまう。
つまり孤立と迫害と不遇は私には正義と潔白の証明で、財産と人望と幸福は諸悪を重ねた結果としか見えない。
神も民衆も味方ではない
私自身はそこそこ豊かな家に生まれ、そこそこ成績のいい優等生だった。家族にかわいがられ友人も多くて、かけがえのない親友もいた。だから幼い時から自分は神にも民衆にも決して愛してはもらえないとどこかでしっかりあきらめていた。私にもそれなりに悲しみや苦しみや疲れはあったが、そのどれもが公式には決して認定されないことで、親や先生や神や大衆はまともに相手にしてくれない種類のものだと思っていた。そういう存在はどれも、もっと恵まれない、しいたげられた人たちのためにあるので、そういう人たちから与えられたつらさや痛みは決して正しいものとしてとりあげられることはないし、誰も私の味方はしてくれないと自分でも意識しない心の底でわかっていた。
だが、そのことに安堵もしていた。私がもしも不幸になって孤立したら、その時はどんなに世間に見放されても、神や大衆や親や先生から救ってもらえ守ってもらえる、少なくとも心の底では、それらのすべてが私の味方をしていると実感できると、同じ強さで私は確信していたからだ。だから私は神も大衆も周囲の人たちも、あまり信じてはいなかったがそれほど嫌いでもなかったし、常に孤独を感じていても、それはそれほど不快ではなかった。
危険な爽快感
当然、年齢を重ねて体験を積むと、悪いことをして不幸になる人も、よいことをして幸福になる人も世の中には多いと、今では一応納得している。革命後の貴族たちの処刑、優等生へのいじめなどの、誰が弱者で虐げられた存在か判断は困難な状況があることも理解する。しかし、それらのすべてを含めて、なお私の中には「神や民衆は私が幸福である限り、決して私の味方ではないし、あるべきでもない」という感覚が厳然として存在する。
勝ち組負け組などということばが普通に使われる今では、私のこんな話を聞くと、エイリアンの言語が流れるラビリンスに迷いこんだような気分になる人も少なくあるまい。私の方もそういう世の中の感覚に異次元に来たような違和感を持ちつつ、その一方で幼いころから自分が呪縛されていたものから解放されるような、ある爽快感もかすかに感じるのは否めない。
ただ、その爽快感はおそらく人類を破滅にみちびく悪性のものだろうなあという実感も、確実にどこかにある。恵まれていることへの後ろめたさ、エリートであることの孤独を失ってしまったら、人間の社会はこの先どこへ行くのだろう。
しいたげられた者と同様、恵まれた者の犠牲によって、この世は支えられている。その一方をなくした時に世界はきっと転倒する。
非公式な基準
それはさておき、最初に述べた「死刑台の上にいる人が正義で、玉座にいる人が悪」という私の中の感覚がどこからどうして生まれたのか、大人になってからしばしば私は考えた。私の一家はクリスチャンではないが、キリスト教の文化の影響が強く、大学では学生運動をしていたからマルクス主義にもなじみが深い。まあ殉教者や革命家の話を普通に聞いていれば、「正しい者は迫害される」が常識となって私の中に刷りこまれるのも無理はないか、と納得していたのだが、最近になって、それ以上に小説を読んだ影響が大きいかもしれないと考えている。
この本でもさんざん書いたように、小説の中の主人公をはじめとする登場人物の多くは、誤解され迫害され正当に評価してもらえず、努力や献身や成功はしばしば闇に葬られて歴史にも記憶にも残らない。それが当然で、それが愉快で、それで満足するという精神が、善良な人々の幸福な世界を根っこでどっしり支えて来たのだ。
もちろん、よい行いが闇に葬られることなく評価され、結婚式や戴冠式などといったハッピーエンドで終わる文学もまた多い。だが、一方でその後の家庭や世界の凋落や変質を描く文学も数多いから、私に限らずそういう文学を多く読んでいる人なら、現実でも選挙の勝利や試験の合格、全国大会の優勝といった喜びの頂点の時ほど、「さてこれから失速や堕落や幻滅が始まる」と、いつも覚悟をしてしまうのではあるまいか。
そして、どんなに絶望的な状況や救いのない悪人に対しても「その場にいる気持ちで、その人の立場に立って」描き考えるのも文学の役割だ。これがまたどんな犯罪をおかす異常者も狂人も、しょせんは私たちと地続きの場所にいる普通の人間だという実感を生む。外部の評価であれ内部の精神であれ、最高と最低の間は決してそれほど遠くはない。そんな感覚が自然に生まれる。
こうやって、公式の評価や裁定とは違う基準を、人々の中に文学は作る。公式の評価や基準は必要で重要だが、それだけではカバーしきれないものを文学は見つめ、それに対応する能力を養う。それは次の時代の新しい評価や基準をはぐくみ生み出す土壌となって人々の心に降り積もるのだ。
未来のために
私は基本的には神を信じていないから、殉教者が信じた来世の存在も考えない。だから、「正しいことをしたら迫害されるが、神の国では報われる」という殉教者たちを支えるだろう精神の後半部分がみごとにすっぽり抜け落ちる。「よいことをしたら、いいことがある」どころか「よいことをすれば、ろくなことがない」は私にとっては常識だし、「それでもしなければならないから、する」というのもまあ常識なのだが、それを支える「来世の幸福」がセットでついてこないのは、命綱なしで窓ふき作業をしているようなものだなあと、時々あらためて思うことがある。
革命後の社会についても同様で、ソ連の崩壊もその後のヨーロッパ社会の混乱もなかなか見ていて来るべき新しい未来社会を信じて今をがんばる思考には結びつかない。
それでも私がさしあたりいろいろなことをあきらめていないのは、今ここにやって来ていない人たちへの責任感のようなものだろう。
大学でさまざまな組織の改編に携わるとき、しばしば提案される解決策は、誰もが行きたがらない新しい部署などには、これから採用される新任教員を配置しようというものだ。顔が見えていない名前もわからない存在には、罪の意識を感じないでもすむのだろうが、私はいつもその提案に反対した。新任教員の方も印象が悪かろうが、その人が血肉をそなえた実体あるものとして目の前にあらわれたら、どうせ皆割り切ったりできず何かと後ろめたい気持ちになり、それを押し殺そうとすれば他の面でも鈍感になる他なく、結局全体の質の低下を招くと思った。
まだ、ここに来ていない人は、存在していないという点で最大の弱者である。その人の権利と利益は、今ここにいる私たちが守るしかない。それはまだ、この世に生まれて来ていない子どもたちについても、まったく同様である。かたちにさえまだなっておらず、声も手足もまだない存在の代弁者になるのは、今生きている私たちしかいない。
配所の月
世の中にはあとがきや終章からまず読んでみる人も多いらしい。そんな人が以下を読んであきれはてて、この本を書店の床に投げ捨てて帰るかもしれないのが心配だが、最後の最後に白状すると、私自身はぬれぎぬをきせられるのが、実はそんなに嫌いではなく、むしろ、けっこう好きかもしれない。
自分の実力以上に買いかぶられるよりは、軽んじられてバカにされていた方が気が楽である、といったような健全な水準ではなく、やってもいない罪をきせられたり疑われたり誤解されたりしそうになると、いつでもちょっとわくわくする。若いころにはそれに気づくと、時々わざと怪しげな行動をとって犯人扱いされるのを、ひそかに楽しんだことさえある。
疑われっぱなしになって、死ぬまで誤解がとけなくても別にそれはそれで一向にかまわなかった。そもそも私を疑う時点で、そんな情けない相手に真実の自分を知ってもらう必要などまったく私は感じなかったし、そういう無実の罪をきせられるたびに、誰かに貸しを作るような、どこかに貯金を積み立てているような、妙な安心と満足を感じていた。
「罪なくして配所の月を見る」ということばがある。辞書で見ると、これは流罪ではなく自由の身で、流刑先のような辺鄙な土地の美しい風景を見られたらよかろうなあ、という意味だそうだ。だが本当にそうだろうか。少なくとも私は幼い時からずっと、これは文字通り「無実の罪で流刑になった先で美しい月を見てのんびりしている」幸福と解釈して来た。しかもこの場合「罪なくして」がポイントで、無実の罪で処罰されているからこそ、後ろ暗いところは何もなく、余裕があって楽しめるのだと理解していた。(ちなみに「徒然草」で登場するこの文句は「罪なくして、罪かうぶりて、配所の月を見る」となっていて、明らかに「ぬれぎぬ願望」が入っている。)
この感覚がどの程度決定的に病的か、それは私にはわからない。アガサ・クリスティーのミステリ「ホロー荘の殺人」では疑われているのを楽しんで捜査をかきまわす魅力的な人物が登場するが、私にはその心境がよくわかる。
結論と責任
それもこれも、圧倒的に全面的に信じられるのは重荷だし、きっとよいことではないという漠然とした私の感覚に基づくのだろう。神さえも信じない私が、自分以外の人間や自分自身を信じてはいけないという気持ちもどこかにある。人間は完全ではない。それがいやだから、神のような存在を信じるという気持ちはわかる。しかし、神を信じないのが淋しいからと言って、集団であれ個人であれ、人間に神の代わりを求めるのは、どう考えても危なすぎる。
東日本の震災直後から今日まで、何かと正確な情報が求められる中、私がいつも心配だったのは「安全だ」「安全でない」という政府や責任者や専門家の結論だけが強く要求されることだった。それは学生たちが、さまざまな学説のちがいは知りたがらず、「それでとにかく結論は」と私たちを急がせるのと重なって見えた。何が正しいか何が本当か、専門家でも良心的であればあるほど結論はわからず意見はくいちがい、私たち自身がそれを見比べて結論を出すしかない。そのことが実感として学生たちにはつかめていないのだと、私の方が実感したのはつい最近のことである。
学生たちを笑えない。見ていると今の日本では少なからぬ人たちが過程も資料もすっ飛ばし、「結論を下さい」と指導者や専門家に求め続け、それがまちがっていたら責任は自分ではなく、その発表をした人たちに負ってもらえると感じている。他人の出した結論を手にしてしまえば、それ以上日常の思考も行動もする必要がないと安心しようと願っている。
正確な情報も明確な見解も貴重だが、それを得て結論を出し行動の指針とするのは私たち自身以外には誰もいない。立場も価値感も異なる一人一人の人生に、責任など誰もとりようがないのだ。
ぬれぎぬにまつわる話を通じて、「真実は何もわからない」と投げやりになるのではなく、「真実は自分たちひとりひとりが見出し、皆に伝えて行くしかない」と実感していただけたらと思う。