ぬれぎぬと文学(未定稿)9-第五章 私だけの畑(1)
ヒーローたちの悲鳴が聞こえる
前章で、「ぬれぎぬ」のような不当な罪に落とされて苦しむ人たちに援助の手をさしのべる人物は、おおむねどの文学でも、ある種ののんきさや大胆さを持っており、深く悩まず人間として自然な単純な感情の赴くままに行動していることが多いと述べた。そのような人物像を最も表現しているのは、大衆文学の正義の味方、スーパーマンに代表される無敵のヒーローたちだろう。彼らは深刻な自省や自問などなく、当然のこととして無実の罪をきせられた不幸な人間たちを救う。そして、人間ばなれした圧倒的な力を持ち、どれだけその力を消費しても疲弊も消耗もしないことになっていたから、人間社会の不幸な犠牲者は遠慮も気兼ねもすることなく、彼らの救援や援助を受け入れることができた。
だがこの手の映画が好きな人なら誰もが感じているように、最近のハリウッド映画のこういったスーパーヒーローたちは、「スパイダーマン」をはじめとして「ジャンパー」「ハンコック」「バットマン」など、やたらと疲れて個人的な問題に悩み、時として大衆と敵対し裏切られ、彼らこそが誤解されぬれぎぬをきせられたりしている。「スパイダーマン」や「ジャンパー」の主人公は特に小説では、特殊な能力にたまたま恵まれてはいるものの、それで人類を救えなどと言うのが酷なくらい、しいたげられたかわいそうな子どもだし、「ハルク」もヒーローというよりは薬害被害者だ。「ハンコック」は民衆に好かれようとか彼らにつくそうとかいう発想がもともとない。「バットマン」の映画もいろいろあるが「ダークナイト」などは、彼自身がむしろ「ぬれぎぬ」をきせられたまま民衆のためにつくしている。
さすがにアメリカンコミックの元祖といわれる「キャプテン・アメリカ」の映画では主人公は無名で無力だった時期から、その精神においては完全にヒーローの原型を守っており、身体検査ではねられても国のために戦いたいと熱望し、ためらいなく爆弾に身を投げて仲間を救う正統派のヒーローの資質をそなえた好青年だが、その設定が充分に生かされているとは言い難い。最近のこの手のアメリカ映画では、ヒーローたちはおおむね、与えられた力の使い方がわからず困惑し、「何かちょっと特殊能力があるからって、人を救えなんて言われても迷惑だ」と言わんばかりの顔をしている。
最近の映画や舞台ではキリストさえも同様の弱い人間として描かれる事が多く、映画「最後の誘惑」もそうだし、前章であげたミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」のイエスは、貧しい人や病んだ人に力を分け与えて救っている内、疲れ果てて、日本で私が見た劇団四季の舞台では、地にひれふした人々が際限なく伸ばしてくる手に囲まれてついに「自分で守れ!」と叫んでしまう。とたんにすべての手ははたと地に落ち、訴えていた声々はすべて消えて静まりかえるのが何とも恐ろしかった。
もっとも私はそのとき、ひそかに客席で、この描写はまちがいじゃないかなあと思ってもいた。私自身、その頃いろいろな人たちに頼られしがみつかれていたが、そういう人たちに何かを与えるということは、本当に与えた手の指を通して力が逆に注ぎこまれてくるという実感があって、イエスが人々に与えていたのがパワーやエネルギーのようなものであるなら、それは決して一方的に相手に流れこむだけのものではないはずと思えたのである。
まあその後、時が流れていろいろあって、最近では私もその時のイエス同様、ほとんどもう日常的に「自分で守れ!」という心境になっているから、やっぱり私の状況はイエスに比べれば甘かったのだろう(あたりまえだ)。相手が変化したのか自分が変化したのかよくわからないが、最近では人を救ってもあまり相手からのパワーが逆流してくる気配がない。それは結局、私の方の力がなくなっているのかもしれない。
ツバメとチョウゲンボウ
映画「最後の誘惑」では、悪魔をはじめさまざまな人がイエスに向かって、「すべての人を救おうとするなどと考えるのは思い上がりだ」というようなことを言う。それでなるほどと思ったかどうかは知らないが、この映画のキリストは十字架の上で死ぬのをやめて、思いきり普通の人間としての生活を送る。その行きつく結果はともかく、彼が幼い子どもたちを連れて買い物帰りのネギか何かの入ったかごを下げて、広場でパウロと論争する場面など、冗談のようでちゃんと画面も演技も格調を保っているのが立派である。
だが、そのような忠告をしてくれる人もいなかったため、自らの限界もかえりみず恵まれない人々を救いつづけて、自分も、自分を愛してくれた者も傷つけ滅ぼしてしまうのが、ワイルド「幸福な王子」で、王子その人もだが、ついつい彼のために人を救う協力をしてしまって、南の国に渡る時期をのがして凍死してしまうツバメの方が、この場合は、より「情けあるおのこ」と言うにふさわしいだろう。
有名な童話だが一応説明しておくと、「幸福の王子」は宝玉で飾られた美しい銅像である。しかし、生きている間は見えなかった世の中の悲惨に彼は銅像になって初めて、深く悲しんでいる。そしてツバメに自分の身体についている宝玉や表面をおおった金箔をはがして、貧しい人々に持って行くよう頼むのである。王子は言う。
「わたしが生きていて人間の心をもっていたころは、涙とはどんなものか、知らなかった。無憂宮(サン・スーシー)に住んでいたからで、そこへは悲しみがはいることを許されていないのだ。昼間は仲間と庭で遊び、夜になるとわたしは大広間で舞踏の先頭に立った。庭のまわりにはとても高い塀がめぐらしてあったが、その塀のむこうには何があるのか、聞いてみたいとも思わなかった。まわりのものがみんなそれほどきれいだったから。廷臣たちはわたしを幸福な王子と呼んだし、わたしもじっさい幸福だったのだ、もし快楽が幸福であるとしたらね。そんなふうにわたしは生き、そんなふうにわたしは死んだ。ところが死んでしまうと、みんなはわたしをこんな高いところに立てたものだから、わたしの町の醜さとみじめさがすっかり見えてしまうのだ。そしてわたしの心臓は鉛でできてはいるが、それでもわたしは泣かずにはいられないのだ」(新潮文庫 オスカー・ワイルド『幸福な王子』)
そしてツバメは王子の望みをかなえては毎晩、「今から出発する」と言うのだが、そのたびに王子にひきとめられてしまう。
月が出ると、つばめは幸福な王子のもとへ帰りました。「エジプトに何かご用はありませんか? これから出発しますから」
「つばめさん、つばめさん、小さなつばめさん、もうひと晩わたしのところにいてくれない?」
「エジプトではわたしを待ってくれています。明日わたしの友達が第二の大滝のところまで飛んでいきます。そこでは河馬が蒲のあいだに寝そべっていて、大きな花崗岩の王座にはメムノン神が坐っておられます。夜もすがら星を見つめていて、明けの明星が輝くと、ひと声喜びの叫びを発して、それから黙ってしまわれます。お昼になると黄色いライオンが、水を飲みに水際までおりてきます。緑色の緑柱玉(ペリル)みたいな目をしていて、その声ときたら大滝のとどろきよりも大きいのです」
「つばめさん、つばめさん、小さなつばめさん、この町のずっとむこう側の、ある屋根裏部屋に、ひとりの青年の姿が見える。書類でおおわれた机によりかかっていて、そばの大コップには、しおれた菫の花束がさしてある。その男の髪の毛は茶色で縮れており、くちびるは柘榴みたいに赤く、大きな夢みるような目をしている。劇場の支配人のために戯曲をひとつ書きあげようとしているのだけれど、あまり寒くて、もう字が書けないのだ。火格子にはひとかけらも火がなく、ひもじさのあまり目が舞いそうになっているのだ」
「もうひと晩だけご用をつとめましょう」とつばめは言いましたが、ほんとうはやさしい心の持ち主なのです。「もうひとつのルビーを持っていってやりましょうか?」
「ああ! もうルビーはないのだ。残っているのはこの目だけなのだ。珍しいサファイアでできていて、千年も昔にインドから到来した品なのだ。それをひとつ抜きとって、あの男のところへ持っていってください。あの男はそれを宝石商に売って、食べものと薪を買い、戯曲を書きあげるだろう」
「王子さま、そんなことはできません」とつばめは言うと、泣きだしました。
「つばめさん、つばめさん、小さなつばめさん、わたしの言いつけどおりにしなさい」
そこでつばめは王子の目をひとつ抜きとると、学生の屋根裏部屋へ飛んでいきました。(同上)
ワイルドは同性愛者で当時の法律で罪に問われて投獄されたことがある。だから王子とツバメの交流に、恋人どうしのような切なさを感じる人もいるかもしれない。だが、その要素がなくても、充分に二人の関係は悲しい。王子はもはや新しく何かを得ることも作り出すこともできないのだから、他者を救おうとすれば、今持っているわずかな、かけがえのないものをひとつひとつ手放して行くしかなく、最後は彼自身が何の価値もない鉛の像になって町の人たちからとりこわされてしまう。しかも、協力してくれるツバメも犠牲にする。それでも王子は、人々の不幸を何もしないで見ているよりは、そうすることを選ぶのである。
ところで、「早く出発しなくちゃ」と王子に訴えるこのツバメのことばを聞いていると、つい現代の長編ファンタジー、リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」のチョウゲンボウ(タカの一種)のキハールのことを思い出してしまう。彼も早く南に飛ばなければとあせっているが、ぎりぎりまでとどまって、うさぎたちの戦いの手伝いで重要な役割を果たして協力する。しかし戦いがまだつづいている、まだまだ気が抜けない局面であるにもかかわらず、そこで彼は皆と別れて南へ去る。彼はそれを後ろめたいと思っていないし、うさぎたちも全然彼を責めないで感謝して別れを告げる。ロマンティックさや美しさにおいては「幸福の王子」に劣るかもしれないが、このような彼とうさぎたちの協力関係には、あるさわやかさと力強さがある。
前章で述べたように、「ぬれぎぬ」をきた人たち、あるいはそれに限らず世の中で不当な扱いを受けて運命に見捨てられている人たちに、さしあたりもう少しは無事で恵まれているかに見える人たちが、どこまで手を貸すのかは何とも難しい問題だ。スーパーマンたちやキリストでさえ、最近では疲れて力の限界を感じている(ように描かれる)というのに、私たち一般人がどこまで自分を犠牲にして、それらの人々を救えばいいのだろう。そこに何かの基準はあり得るのだろうか? 幸福の王子やツバメのようにまでは身を削らず、キハールのように自分の生活をこわさない範囲で、できる限りの援助をして、相手の運命は相手にまかせて、さらりと別れて行くことができたら望ましいのだろうが、現実はなかなかそううまくは行かないものだ。
王宮の外
「幸福の王子」の王子は、自分がいかに不幸であるかを知らず、王宮の外の人々の悲惨な暮らしをまったく知らなかったのだと嘆くのだが、それを生きている間に知ってしまったのが、同じ作者の童話「若い王」で、ワイルド自身が対になる二作として考えていたようだ。この作品の主人公である若い王は、美しいものをこよなく愛して衣装や宝飾品に夢中になっていたのだが、戴冠式の前夜に見た夢で、自分の身を飾る宝石や布地のさまざまが、貧しい人たちの命を削った労働で生み出されたものと知り、それを身につけることを拒む。
「これらの品々をひきさげて、余の目のつかぬように隠せ。戴冠式の当日たりとも、余はこれらの品を身にはつけぬぞ。余のこの衣は、悲しみの織機を用い、『苦しみ』の白い手によって織られたからだ。ルビーの中心には『血』があり、真珠の中心には『死』がある」(新潮文庫 オスカー・ワイルド『幸福な王子』 「若い王」)
王はこう命じ、皆に夢の話をするのだが、当然のことながら誰も納得しない。それでも王は豪華な衣装は身につけず、粗末な服装で戴冠式に臨むが、貴族や民衆はそれに不満と怒りをあらわにする。民衆の一人は言う。
「陛下、富める者の豪奢から貧しき者の生活が出てくることを、ご存じありませぬか? 陛下の虚飾によってわれわれは養われ、陛下の悪徳がわれわれにパンを与えるのでございます。主人のために汗水たらして働くのは、つらいことではありますが、しかし仕えて働くべき主人を持たぬことは、なおいっそうつらいことなのでございます」
また戴冠式を司る老司教も言う。
「悲惨を作り出された神さまは、陛下よりも賢明でいらっしゃるのではございますまいか?(略)陛下のお夢については、これ以上お考えあそばしまするな。この世の重荷は、ひとりの人間がになうには大きすぎ、この世の悲しみは、ひとつの心がたえるには重きにすぎまする」
これらの理屈や説得は、この今の現代でも格差を肯定する論理や感覚として立派に通用している。この短い童話の中に、それに対する反論はない。ただ、怒った貴族から命を奪われようとしたとき、王の衣装や持ち物はすべて美しく変貌し、司教は「わたくしよりも大いなるかたが、陛下に冠を授けられたのでございます」と叫び、人々も畏怖にうたれてひざまずく。
司教たちの理屈に理屈で反論することは、当時も今も可能だと思う。しかし理屈を超えた奇跡の場面を最高に美しく描くことで作者はその解答に代えた。王が見る夢の悲惨な世界の苦しみが蠱惑的な魅力で描かれるのと相まって、そこには理屈以上とは言わないまでも、理屈とは別の強い説得力がある。
どのみち、自らの恵まれた立場を苦にせずに享受し、王宮の外の苦しみには目を向けないでいることは、それをいったん知ってしまった者にとっては、楽なようで案外大変なことなのだ。それに耐えられなかった王子シッダルタが家出して世界三大宗教の一つの仏教が誕生したぐらいだから、いったん気にしはじめたら絶対平気でいられるものではない。そこにあえて楽しみを見いだそうとしていたら、おそらくどこか人間の心は疲れ、力は失われ、性格はゆがむ。シッダルタや若い王の決断と行動はむちゃくちゃなようで、案外健康面もふくめて、現実的な正しい判断であったかもしれないのだ。
ポオの「赤死病の仮面」も、疫病の瘴癘を黙殺して隔離された豪奢な屋敷の中で饗宴を続けていた男女に訪れる結末を描いているが、この短編で最も恐ろしいのは、最後に登場する疫病ではなく、そこにいたるまでに外界の不幸や悲惨に目をつぶって享楽の限りをつくす人々が住む場所の、息づまる異様な空間である。その救いのない空気感は、疫病よりよっぽど恐ろしい。(続く)