ぬれぎぬと文学(未定稿)3-第一章 予期せぬぬれぎぬ

痛ましい色

「お菓子の好きなパリ娘」とはじまる歌がある。軽やかでしゃれた歌詞とメロディーで、映画「ひめゆり」の中で当時女学生だった語り部の老女が戦場に赴く前夜、若い女の先生がこの歌を歌ってくれたと話していたのが印象的だった。あとの方の一節に「空は五月の水あさぎ」というのもある。
「あさぎ」は浅葱色、薄い水色である。これは歌舞伎の世界では、若い男性が死ぬ時に着ることになっている色である。目を洗うように涼やかですがすがしい色の、その約束事は切なすぎるセンスで、感心しつつ嘆息する。
「仮名手本忠臣蔵」で犯してもいない罪を責められ、進退きわまって自害する早野勘平もこの色を着ている。彼自身がその罪を犯したとまちがって思いこんでいるため、自身の罪悪感にもさいなまれて切腹にいたるまでの行きとどいた演出と演技は、初めてこの場面を舞台で見たとき、歌舞伎って芸術なものか、まったく病気だ、サドマゾだ、ポルノなどよりよっぽどエロティックで嗜虐的で煽情的じゃないか、こんなものを集団で見ていていいのか、と客席の私をそわそわさせた。
歌舞伎というのは、そういう風に臆面もなく、濡れ場や殺しや責め折檻を舞台の上でやってみせてくれるもので、これが特別というわけでもないのだが、それからも何度かこの場面を見るたびに、その、いじめ方の徹底ぶりには毎回かぶとを脱がざるを得ない。

闇夜の殺人

勘平は赤穂浪士(歌舞伎では太平記の時代のことにしてあるので、塩冶浪人)の一人である。主君の刃傷事件の際、随行していたのだが、恋人である家中の腰元おかると逢引きしていて事件の場に居あわさず、責任を感じて自害しようとするのをおかるに止められ、駆け落ちして彼女の実家に身を寄せる。山奥で猟師をしているおかるの老いた両親は息子のように彼を愛して大切にし、四人は幸福な家族だったのだが、勘平は侍に戻り主君の仇討ちに参加したいと願っていて、そのための参加費用が必要だった。だから、ある夜の山道で猪とまちがって火縄銃で殺した相手を闇の中で介抱しようとして、死体から大金の入った財布を見つけた時、思わず財布を持ち帰ってしまう。(註1)だが同志の人々に金を届けて夜明けに帰宅すると、妻のおかると姑のおかやから、彼の願いをかなえるために舅の与市兵衛と三人で相談して、おかるが遊郭に身を売ることにし、その金を昨夜受け取りに行った舅がまだ帰らないことを聞かされる。
その時はまだ何も気づかず、金が手に入ったから、もうおかるが身を売る必要はなくなったと二人に告げた勘平は、やがて妻を引き取りに来た遊郭の女主人と妻は渡さないと押し問答になる。だが「もう契約金を渡してある」と主張する女主人から話を聞いている内に、昨夜殺して金を奪った相手が舅だったと確信し動転して、妻との最後の別れの挨拶もそこそこに彼女を連れて行かれてしまう。深く愛しあった夫婦でありながら、これが永遠の別離となるのに、本心をかくしたままの上の空で勘平がおかるを行かせてしまうのも、何ともせつない。
まもなく猟師仲間が運び込んだ舅の死体を見て、姑のかやは激しく嘆く。そして間もなく勘平の様子から、彼が舅を殺したのではと疑って彼を問いつめるのだが、おかやの夫への深い愛情と信頼していた聟への怒りがよくわかるだけに、勘平の苦しみもまたただならぬものがある。
以下、♪をつけたのは、バックの三味線と唄で人物のせりふを補強する部分、かっこ内は動作の説明をする、いわゆる「ト書き」である。

かや(姑)「コレ聟どの、わしゃこなたに尋ねたいことがある。ここへ御座れ、ハテマア、ここへござれというに」
(トこれにて勘平、余儀なく前へ出る。)
「コレ聟どの、よもやよもやと思えども、合点が行かぬ。何ぼ以前が侍じゃとて、舅の死に目を見やったらびっくりもしやる筈。こなた親仁どのに道で逢うた時、金受け取りはさっしゃらぬか。イヤサ親仁どのが何といわしゃった。言うて見さっしゃれ、言われまい言われまい。言われぬ証拠は、コレここに」
♪勘平が懐へ、手をさし入れて引き出す財布、
(トおかや、勘平の懐へ手を入れ財布を引き出し、)
「さっきにちらりと見て置いたこの財布。コレ、血の附いてあるからは、こなたが親仁どのを殺さっしゃったの」
(ト勘平の胸ぐらを取る。)
勘平「エエそれは」
かや「それはとは、エエ、こなたはな、隠しても隠されぬ。天道さまが明らかな、親仁どのを殺して取ったその金は、誰にやる金じゃ。皆こなたにやる金じゃぞや。アア聞こえた(わかった)。身貧な舅ゆえ、娘を売ったその金を、途中で半分くすねて置いて、皆やるまい(全額を勘平には渡さないだろう)と思うて、それで殺して取ったのじゃな」
勘平「イエ、決してさようではござりませぬ」
かや「イヤ、そうじゃそうじゃ、そうじゃわヤイ。今の今まで律義な人じゃと思うて、だまされたが腹が立つわいの。エエここな人でなし。あんまりあきれて涙さえ出ぬわいやい」
♪のう、いとしや与市兵衛(舅の名前)どの。
「畜生のような聟とはしらず、どうぞ元の侍にしてやりたいと、年寄って夜の目も寝ずに」
♪京三界を駈け歩き、
「身代をなげうって世話さしゃったも、却ってこなたの身の仇となったるか。エエ飼うた犬に手を喰わるると、ようもようもこのようにむごたらしく殺された事じゃ。アノ、ここな鬼よ蛇よ。サア親仁どのを生けて戻せ、戻しおれやい」
♪遠慮会釈も荒男(強い成人男性)の、たぶさ(頭のまげ)をつかんで引き寄せ引き寄せ叩きつけ、
(ト勘平のたぶさをつかんで、引き寄せ、財布でさんざんに打つ。)
「ずたずたに切りさいなんでも、何のこれで腹が癒ようぞいの」
♪恨みの数々口説き立て、かっぱと伏して泣き居たる。
(トおかや勘平を打ちすえ、咳にむせ入る。勘平さすりに行くを、突き倒すことよろしく、)
♪身の誤りに勘平は、五体に熱湯の汗を流し、畳に喰いつき天罰と、思い知ったる折こそあれ、深編笠の侍二人。

勘平の死

訪れたのは勘平のかつての同僚、千崎弥五郎と不破数右衛門だった。二人は勘平が死体から奪った財布の金を、仇討ちの参加費用として届けたのを、主君の非常事態に居あわせなかった彼を仇討ちに参加させるわけにはいかないと返しに来たのだ。かやの訴えで事情を知った二人は驚き、ともに勘平を責め、進退きわまった勘平はついに自害する。

勘平「スリャ、この金子は御用に立ちませぬか。アノ御用には」
♪はっとばかりに気も転倒、母は涙と諸共に、
かや「コリャここな人でなし、今という今、親の罰思い知ったか。モシお二人様聞いて下さりませ。親仁どのが年寄って、後生の事も思わずに、聟のために娘を売り、金調えて戻らっしゃるを待ち伏せして」
(ト言いかける。勘平とどめんとするをふり払い、)
「エエ、言わいでかい言わいでかい、言わいでかいのう。親仁どのを殺してとった金じゃもの、天道さまがなくば知らず、何で御用に立つものぞ。どうぞあなた方の手にかけて、なぶり殺しにしてやって下さりませ。わしゃ腹が立つわいの腹が立つわいの」
♪身を投げ出して泣き居たる。聞くに驚き弥五郎、刀おっとり、勘平がそばに詰めよって、
弥五郎「ヤイ勘平、非義非道の金取って、身のとがの詫びせよと、この弥五郎が申したか。イヤサ、この則保は申さぬぞ。汝のような人非人、武士の道は耳にも入るまい。親同然の舅を殺し、金を盗みし重罪人、新刀なれど長曽根虎徹、拙者が手料理振舞おうか」
数右衛門「アイヤ、千崎氏、暫くお待ちなされ」
弥五郎「じゃと申して」
数右衛門「ハテ御尤もにはござれども、まずまずお下にござれ。コリャ勘平、それへ出い。イヤサ、ずっとそれへ出い。コリャ勘平、お身ゃどうしたものじゃ。渇しても盗泉の水を呑まずとは、義者の戒め。舅を殺し取ったる金、亡君の御用に立つと思うか。生得、汝が不義不忠の根性にて調えたる金子と推察あって、さし戻されし大星(由良之助、すなわち大石内蔵助)殿の眼力、あっぱれあっぱれ。さりながら、ただ情なきは、このこと世上に流布あって、あれ見よ、塩冶の家来早野勘平、非義非道を行ないしと言わば、汝ばかりの恥辱にあらず、亡君の御恥辱と知らざるか、うつけ者めが。さほどのことの弁えなき汝にてはなかりしが、いかなる天魔が魅入りしか。チエエ、情なき心じゃなア。かような所に長居はは無用、千崎氏、もはや立ち帰りましょう」
弥五郎「左様つかまつろう」
(ト両人、立ち上がり、行きかけるを、勘平引き止めて、)
勘平「暫く暫く、御両所、暫くお待ち下され。亡君の御恥辱とあれば、一通り申し開きつかまつらん。武士の情じゃ御両所とも、お下にござってまずまずお聞き下され」
両人「申す事あらば早く申せ」
勘平「暫く暫く。(ト住まい直り)弥五郎殿、夜前貴殿にお目にかかり、別れて帰る道々も、金の工面にとやかくと、心も暗き闇まぎれ、山越す猪に出会い、二ツ玉の強薬(火縄銃の強力な火薬)、切って放てばあやまたず、確かに手応え。駈け寄り見れば、こはいかに、猪にはあらで旅の人。ナナナナ南無三宝、薬はなきかと懐中を、探し見れば手に当たったる金財布、モ、道ならぬ事とは知りながら、天より我に与うる金と押し戴き、すぐに追っつき、貴殿にお手渡しつかまつり、徒党の数に入ったりと、悦び勇んで立ち帰り、様子を聞けば情なや、金は女房を売った金、打ち留めたるは」
両人「打ち留めたるは」
(ト勘平、双肌を脱ぎ、腰刀を抜いて腹に突き立てる。)
勘平「舅どの」
両人「ヤヤ、なんと」

この直後に死体の傷口から、舅は強盗に殺されて勘平が殺したのは、その強盗だったとわかる。そんな肝心なことは本人も周囲ももっと早く調べろよと見ている方は嘆きたくなるが、歌舞伎に限らず演劇では、こんな無理な展開は普通であるからしかたがない。「これ、聟どの、手を合わして拝みます」と後悔してわびる姑と仇討ちの連判状に名を加えることを約束する盟友たちに見守られつつ勘平は満足して息を引き取る。
観客は舅が強盗に殺され財布を奪われる凄惨な殺人場面を、この幕の前の場面でたっぷりと見せられており、勘平の無実も知っている。だからますます彼の懊悩と、三人に激しくののしられて言い返せずに苦しむ姿に、もどかしさと切なさを感じないではいられない。(註2)

蹂躙される無垢

歌舞伎も浄瑠璃も、こうした場面を本当に臆面もなく徹底的にサービスして、これでもかと言わんばかりに観客の精神を刺激する。最初にこの場面を見たとき、私がこんなものをまともで善良な市民が皆で見ていていいのかと心配になったのも無理はないと今考えてもつくづく思う。ただ、ここまではえげつなくない他の作品の同様の場面でも、そういう要素はしっかりある。
シェイクスピアの「オセロー」で偉大な大将軍である夫オセローを一途に愛する若く美しい妻デズデモーナは悪人イアゴーの奸計により、夫の部下の青年士官と浮気をしていると疑われて、最後は夫に絞殺される。夫への絶対的な信頼ゆえに、自分を激しく愛する夫の嫉妬と苦しみにまったく思いいたらない彼女が、夫の不機嫌や理不尽な怒りの理由がわからないまま傷ついて悲しむ場面の数々はいかにも痛ましくまた魅力的だ。彼女の自分への絶対的な信頼と尊敬を知っているオセローは、それゆえにこそ彼女の中の理想的な自分の姿をこわしたくなくて、嫉妬の念をあらわにできず正面きって彼女を追求することができない。妻のみならず、イアゴーを除いては周囲の誰も予想などできなかった豪胆で勇敢な英雄の、深く相手を愛するゆえの臆病さが、ますます悲劇を深くする。

デズデモーナ「あなた、ご用は?」
オセロー「すまんが、ここにきてくれ」
デズデモーナ「なんでしょう?」
オセロー「おまえの目を見たい、おれの顔を見るのだ」
デズデモーナ「なにか恐ろしいことを思いつかれたのでは?」
(略)
デズデモーナ「お願いです、なにをおっしゃりたいのか教えて。おことばにこもるお怒りの気持はわかります。でもおことばの意味は」
オセロー「では聞こう、おまえはなにものだ?」
デズデモーナ「あなたの妻ですわ、貞淑で忠実な妻です」
オセロー「そう誓うがいい、地獄に堕ちるだけだ。天使にも似たおまえのことだ、悪魔もつかまえるのをためらうかもしれぬ。だから二重に罪をかさね、忠実な妻だと誓うがいい」
デズデモーナ「それは神様がご存じです」
オセロー「神様はご存じだ、おまえが悪魔のように不実だとな」
デズデモーナ「だれにです? だれを相手に? どうして私が不実などと?」
オセロー「ああ、デズデモーナ! 出て行け、出て行け、出て行くのだ!」
デズデモーナ「ああ、なんて悲しい! なぜお泣きになるの? その涙のもとはこの私ですか、あなた? もしかしたらあなたに帰国の命令がきたのは私の父のたくらみとでも疑っておいでなのね。でも私を責めないで。あなたが父と縁を切るなら、もちろん、私も縁を切ります」
オセロー「神のみ心によりどのような苦難がこのおれに課せられようと、ありとあらゆる苦痛や恥辱がこのむき出しの頭上に雨となって降りそそぎ、首まで貧窮にひたされ、この身も最後の望みも奴隷の鎖につながれようと、おれの心のどこかにはひとしずくの忍耐が見いだしえたはずだ。だが、ああ、このおれが、磁石の文字盤の北極のように、世のあざけりの針を避けがたく突きつけられる身になろうとは! いや、それも耐えてみせよう、うむ、それさえも。だが、おれの心を大切にしまっておいた場所、生きるも死ぬもそこと定めておいた場所、いのちの川が流れるも涸れるもそれ次第という泉、おまえの胸―そこから投げすてられるとは! その泉を汚らわしいヒキガエルがつるんだろはらんだりする水溜りにする気か! ういういしいバラ色の唇をした天使、忍耐よ、こうなれば顔色を変えるがいい、そう、悪魔のように陰惨な顔つきにだ!」
デズデモーナ「どうかあなた、私の忠実を信じてください」
オセロー「信じるとも、屠殺場の夏の蠅が卵を産むやいなやもうはらむように忠実だとな。ええい、毒草め、おまえは愛らしく美しい、かぐわしい香りがする、おかげで五感も疼く、おまえは生まれてこなければよかったのだ!」
デズデモーナ「ああ、知らないうちにどんな罪を犯したのでしょう?」
オセロー「この純白の紙、美しい書物は、その上に『淫売』と書かれるために作られたのか? どんな罪を犯しただと? 犯したとも! ええい、淫売女め! おまえの犯した罪を口にするだけで、おれの頬は鉄をも溶かす炉となり、羞恥心も燃えつきて灰になろう。どんな罪を犯しただと! 天も鼻をふさぎ、月も瞼を閉じ、出会うすべてのものに口づけする淫蕩な風も、大地の洞穴にじっと身をひそめて耳をおおうだろう。どんな罪を犯しただと! 恥知らずの淫売め!」
デズデモーナ「あんまりです、ひどい誤解だわ」
オセロー「淫売ではないと言うのか?」
デズデモーナ「キリスト教徒の名にかけても。夫であるあなたのためにこのからだをまもり、ほかの男の汚らわしい不義の指にふれさせないことが淫売でない証拠なら、私は淫売ではありません」
オセロー「なに、淫売ではないと?」
デズデモーナ「はい、魂にかけても」
オセロー「そんなことがありえようか?」
デズデモーナ「ああ、恐ろしいことを!」
オセロー「ではおまえに許しを乞わねばならぬな。おまえをオセローと結婚したヴェニスきっての淫売と思いこんでいた」

オセローが去ったあと、呆然としたデズデモーナは侍女のエミリアと次のような会話をかわす。

エミリア「ああ、あのかたはなにを考えておいでなんでしょう?どうなさいました、奥様? どうかなさいました?」
デズデモーナ「まるで夢でも見ているよう」
エミリア「奥様、旦那様はどうかなさったのですか?」
デズデモーナ「だれのこと?」
エミリア「あら、旦那様ですよ」
デズデモーナ「旦那様って?」
エミリア「あなたのですよ、奥様」
デズデモーナ「私にはそんな人いないわ。なにも言わないで、エミリア、私は泣くこともできない、でもなにか言えば涙が出てきそう」

このようないたましさの描写はまた、ユダヤの名家に生まれながら、友人の裏切りによってローマの総督を傷つけようとしたという無実の罪をきせられ、家族も財産もすべて失ってガレー船の奴隷になる、ルー・ウォーレス「ベン・ハー」の主人公や、有能で率直な若い船長として未来を約束されていながら、ライバルの悪意や政治的事情にまきこまれて、何が起こったかわからないまま地下牢に幽閉された、アレキサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯」の主人公にも共通する。彼らがどちらもまだ十代の若さであることもあるが、だいたいこういう「予期せぬぬれぎぬ」をきせられるような人は、それまできわめてまっとうな市民としての生活を送ってきているだけに、裏の世界や暗黒面とは無縁で、世の中の正義や法を信じているから、観客や読者の多くが見ていてもひやひやするほど楽天的で、支配者や社会体制の悪意や無能に対してまったく警戒心がない。
「予期せぬぬれぎぬ」というと予想されやすいように、また実際にもよくあるように、貧しい虐げられた環境で司法や人権に関して学んだことのない人が「黙秘します」「弁護士を呼んで下さい」と言う権利も知らないで苦境におちいってしまうことは珍しくない。だが、このように恵まれた地位と環境から来る育ちの良さや知識の豊かさも決して助けにならないどころか、それがかえって災いして同様の陥穽を生む。次にあげる、逮捕直後のダンテスの、その後の顛末を知って読む者の目から見たら、どやしつけたくなるようなのんきさもその一例だ。かつてソルジェニーツィンが「収容所群島」の中で、「なぜ私たちは誰も、護送される途中の駅なり広場なりで大声をあげて不当な逮捕だと周囲に訴えなかったのか」と後になってしみじみ述懐したように、私たちの誰もが突然まったく覚えのない罪で逮捕されたら、環境も育ちもどうであれ、やはりこういう反応しかできないものなのかもしれない。

「いったいどこへつれて行かれるんです?」と、彼(ダンテス)は憲兵の一人にたずねた。
「いまにわかるさ」
「でも・・・・」
「説明を与えてはいけないことになっているんだ」
海員であるダンテスは、半ば軍人ともいうべきだった。話してはいけないと命ぜられている下級の者に向かってなおも問いかけることは、彼にとってはばかばかしいことに思われた。彼は口をつぐんだ。そのとき、じつに奇怪な考えが心をかすめた。こんな船でどれほど長い路が行けるものでもなし、それに目ざす方角にあたって碇泊している船の姿も見えなかったことだし、これはきっと海岸からずっと離れたところまで自分を運んで行き、もうこれで自由になったのだと言ってくれるにちがいない。彼は、縛られてはいなかった。手錠をはめるようすさえなかった。彼にとっては、それが良いことのしらせのように思われた。それに、あんなに親切にしてくれた検事代理も、もしあの恐ろしいノワルティエの名さえ口に出さなければ心配することはないと言ってくれたではなかったか。しかもヴィルフォール氏は、自分の見ている前で、あの危険な手紙、自分にとってたった一つの証拠物件の手紙までも焼き棄ててくれたではなかったか。(板坂註。書いていてさえ腹がたつが、これはヴィルフォール氏が自分の保身のためにした証拠隠滅で、実はダンテスの無実を証明するものであった。)
彼は黙って、考えこみながら待っていた。そして、暗に馴れ、広い場所に馴れている船乗りの眼で、この暗を通してうかがってみようとした。
灯台の灯のともっているラトノー島を右に残し、ほとんど海岸に沿って走りながら、いまちょうどカタラン湾の真正面にあたるあたりにかかっていた。そこまで来ると、囚人の目の力は倍になった。そここそは、メルセデスの家のあるところだった。彼には、そこの暗い岸辺に、おぼろげな女の姿が絶えず見えてきそうな気がした。
ひょっとした予感から、メルセデスが、いま自分の恋人が三百歩ばかりのところを通っているのを感じないとどうして言えよう? ただ一点の灯かげがカタランの町に輝いていた。彼はその光の位置から考えて、それが許嫁の部屋を照らしているものにちがいないことを認めた。あの小さい村のなかで、起きているのはメルセデスばかり。高く一声立てさえしたら許嫁の耳まで声がとどこう。
彼は、心にもない羞恥の気持から、そうすることを思いとまった。狂人のようにわめき立てるのを耳にして、船の人たちはなんと思うだろう? 彼は灯を一心に見まもりながら、一言も口に出さずにいた。(岩波文庫『モンテ・クリスト伯』 八「シャトー・ディフ」)

作者のデュマは、この後彼がすさみ疲れ、半狂乱になって行くさまを文庫本の十数ページを費やして詳細に克明に描写している。
彼らの無知で無邪気な世の中への信頼が踏みにじられて絶望し、苦しみぬく姿をここまで熱心に描く作者たちと、それを見たり読んだりする時に私たちの心に生まれるおののきは、恐怖や同情だけではない。そこにはどんなにわずかでも、勘平が舞台の上で痛めつけられるのを見る時に感じるのと同様の、ある種のゆがんだ快感がある。

複雑な心境

だが、そういう感覚は決して否定されるべきものではない。
かつて私は「食事の前には読めない本」というタイトルで文学の中の醜いものや汚いものの描写について学生たちに講義したことがある。いつの間にかやめてしまったのは、筒井康隆「俗物図鑑」やサド「悪徳の栄え」の数々の引用に今の学生たちが耐えられないのではないかと思いはじめたからで、精神的苦痛を与えられたと告発されかねないと心配になったこともある。
その講義で私は、戦場や事故や病気の酸鼻をきわめる描写がどんなに節度をもって書かれていても、読む方にはどこかに病的な好奇心が皆無ではあり得ない危険性についても述べた。そして、そのような危険を冒してでも、やはりそのような描写は書かれ、読まれなければならないと教えた。

だが、私自身は、自分の中の、そういう病的な興味を刺激される危険をおかしてでも、やはりある程度はこういった報道や記録や文学をこれからも読んで行こうと考えている。私がそれらを見る気持ちの根底にある理由の一つは、現にそれらを味わった人たちがいるのだということである。私にとっては見ることも耐えられないような、それらのことを、現実に被害者として体験するしかなかった人たちがいる。それを思うと、「見るのが恐い」「恐ろしくて見られない」ということは、その人たちの前でも、どこでも、私は言ってはいけないのではないか。面白半分の気持ちを抱いたり、恐怖や嫌悪をこめて見ることと同様に、「見るのに耐えられない」と言って黙殺しつづけることもまた、そのような被害にあった人々を傷つけることになりはしないか。そんな思いがいつも消えない。(板坂耀子『食事の前には読めない本』 花書院 4「書けますか?こんなこと」)

そうは言っても私自身、一昔前の映画や小説がまったく良心的に女性のレイプを告発していても、現実にはポルノとして読まれることが充分可能なほど犯行の場面を克明に再現することには強い嫌悪感を持っていた。映画「スリーパーズ」が原作の小説と異なり少年たちのレイプシーンをまったく映像化しなかった時は、女性が被害者である同様の映画での、従来の描写の無造作さとのあまりの配慮の差に、むしろ複雑な心境になったほどだ。近年のボーイズラブ小説がしばしばそのような場面を詳しく描くのを見ても到底批判する気がしないのは、その心境を思い出すからでもある。

毒の効用

今では一般の人に公開されているような映画や小説では、そういった場面の詳しい描写はない。そのことに私は安堵し、支持もする。しかし、その一方で、学校の平和授業で戦争や被爆の体験を聞いた児童や保護者から「精神的苦痛を受けた」と抗議が来ると聞いたりすると、これはこれでまた考えこまざるを得ない。
セクシャル・ハラスメントについての講演でしばしば聞くのは、加害者でなく被害者の自己責任が取りざたされて、被害者を二度傷つけるという事例だ。おそらくそれは、まったく自分に責任のない人間が理不尽に被害者になるという事実を認めれば、自分もまたどんなに注意し正しく生きていても、そういう被害者になりかねないという恐怖に日夜さらされることになるからだろう。残酷で悲惨な事実の描写を拒絶して、美しく快いものだけを味わっていたいという姿勢ともそれは共通のものがある。それは不運でもしかしたら少し不注意な人たちがたまたま出会った悲惨であり、おそらくそういう目にあうことのない自分たちは目をそむけてなかったことにしてあげるのが一番よいことなのだろう、と考える優しさだ。
だが映画「将軍の娘」が訴えているように、理不尽な被害を受けた人にとって最も耐えられないのは、それから目をそむけられ、なかったことにされることでもある。
恐怖と屈辱に満ちた体験が、興味本位で猟奇的に見られる苦痛は私にも充分想像がつくし、実際に味わっても来た。東日本大震災の被災地を見物に行く人たちがいると聞くと、そんな地域にも人にも関心を持たず自分の平和な日常にもぐりこむことが良心的で正しいと思いこんでいる人たちもしょせん同じ穴か別の穴かのムジナ(ムジナに失礼だが)だとわかっていても、やはり言い知れぬ不潔感で聞いた耳さえ洗いたくなる。それでも「予期せぬぬれぎぬ」のような不幸な犠牲者を「自分には関係ない、あり得ないこと」と拒絶し否定し黙殺するよりは、たとえ勘平やデズデモーナやダンテスたちの苦しみをどこかでうっとり見つめている自分の感覚におののいたり、うんざりしたりしながらでも、そういう運命の人に関心を持ち、心をよせあわせる危険の方を私は選ぶ。それはまた、文学だけが持つ、毒の効用なのでもある。

部分的な潔白

さて、先にあげた例で言うと、デズデモーナとダンテスはまったく罪を犯していない。ベン・ハーは家の屋上から総督の行列を見ていて、ゆるんでいた瓦が落ちて総督にあたった事故を、悪意ある友人によって故意の殺人未遂と判断されたので、ガレー船送りが妥当でないのはもちろん当然としても、あえて言うならまるっきり彼に責任がないというわけでもない。

実のところ、ユダ(ベン・ハー)は群衆に罵倒されている総督に同情さえ覚えた。だから総督がこの屋敷の角まで来たとき、もっと下の様子を見ようと欄干からさらに身体を乗りだした。そのとき思わず手が、割れたままになっていた瓦の上にのった。とたんに外側の瓦が外れて落下した。恐怖が身体をつきぬける。慌てて落ちる瓦を手を伸ばして押さえようとしたが、それが逆に瓦をより遠くへ落とすことになってしまった。しかもその仕草は、瓦を投げたように人々の目にうつった。ユダは大声をあげ、その声に近衛兵も総督も上を見上げた。次の瞬間、落ちた瓦が総督を直撃した。衝撃で総督は落馬し、死んだように動かない。
即座に隊列は動きを止め、近衛兵は馬から飛び降りて総督の身体を盾で覆った。ユダの頭の中には、今起こったこと、これから起こることが瞬時によぎり、立ちすくんでしまう。しかしあたりの群衆は、故意にユダが瓦を投げたと思い込み、やんやの喝采を送った。そればかりか、あたりの攻撃的な気分は、屋根から屋根へとまたたくまに伝染し、人々を暴挙に駆り立てた。群衆は我先にと欄干の瓦や土くれを隊列に向かって投げはじめ、あたりは一時、大騒乱になった。
ユダは真っ青な顔をして、欄干から体を起こした。「ティルザ、ティルザ、どうしよう」
事件を目撃していなかった妹は、まわりの人々の叫び声や、興奮する様子を目にして、何か取り返しのつかないことが起こったということだけは悟った。しかし実際に何が起こり、そのためにこれから何が起こるのかというようなことは皆目わからなかった。(松柏社 ルー・ウォーレス『ベン・ハー キリストの物語』)

勘平の場合、事情はもっと微妙だ。行きずりの強盗は別として、彼の周囲の人々は誰も悪意を持っているわけでも意図的でもなく、不幸な偶然が重なった結果、彼が疑われた。その不幸な偶然の一つでもあり、彼自身の責任でもあるのは、彼が強盗の死体から大金の入った財布を盗んでいることだ。その弱みがあるからこそ、彼は家族に事実を告げることができなかったし、他人に気づかれる前に彼自身が罪悪感にさいなまれた。
だが、現実でも、ぬれぎぬをきせられる人が完全無垢な無実という場合は実は少ない。むしろ冤罪を生む大きな原因は、容疑者の多くが問われている罪については潔白でも他の点で罪を犯していることにある。具体的には、ミステリによくある、完璧なアリバイを作って殺人を犯したら、アリバイを作った現場で別の殺人が発生していたとか、親友の妻と浮気をしていたからアリバイの実証ができないとかいう例がわかりやすいが、もっと内面的な場合もある。
志賀直哉「クローディアスの日記」は、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を題材とした二次創作で、悪役のクローディアスが実は善人だったという解釈で書かれている。(註3)原作では主人公の王子ハムレットの父王を殺し、その罪をかくしたまま母である女王と結婚して王となり、ハムレットに疑われると彼もまた殺そうとする叔父クローディアスは、志賀の小説では兄を殺していないばかりか、誰に対してもどんな悪意も持っていなかった。それだけにハムレットの猜疑の目に気づいた時には愕然とし、その後も疑惑をかけられ続けている内に次第に「そう言えば自分はどこかで、兄の死を望んでいたかもしれない」と自分の罪を自覚しはじめてしまう。

―自分が兄の死を心から悲しめなかったというのはそれは寧ろ自然な事ではないか。自然だというのが立派なジャスティフィケーション(正当化)である。自分だけなら立派なジャスティフィケーションになっているのだ。然るにそれを彼(ハムレット)が破壊してかかった。それだけなら未だよかった。悲しい事には、その「彼」は自分の内にも住んでいたのだ。
実際あの時の事を思うと今でも愉快な心持はしない。子供の内から一緒に育った兄の死としては自分も本統に悲しかった。が、それ以上に自分には或喜びがあった。心は自由である。想うという事に束縛は出来ない。それは愉快な事では確になかった。然しそれをどうする事も出来ないではないか。自分は自分の心の自由を独り楽しむ事がよくある。又同時にそれが為に苦しめられる事もあるのだ。その意味では自分にとって自分の心程に不自由なものはないのである。実際今の自分には、自分を殺そうと考えている彼よりも、どうにもならない自身の自由な心の方が恐ろしい。自分に於ては「想う」という事と「為す」という事とには、殆ど境はない。(思った事を直ぐ為すと言う意味ではないが・・・・)
それでも自分は明かに云える。自分は嘗つて一度でも兄を殺そうと思った事はない。そういう非道な考を一度だって兄に対して構成した覚えはないのだ。然し自然に不図浮ぶ考は、それはどうすることも出来ないではないか。
兄は三年程前から自分と彼女(王妃。ハムレットの母)との間を疑い出した。然し彼女は自分が恋してる事すらも気がつかない位で、兄が疑い始めた事などは夢にも知らなかった。
兄の心と自分の心とは、時々心同志で暗闘をする事があった。そして兄はあの頃から決して自分を留守へ残さないようにした。旅にも、狩りにも、屹度自分を誘うようになった。そんな旅も狩りも自分には愉快な筈はない。第一に始終窺うような兄の心が自分には腹立たしかった。今になればそれもよかったと思う。何故なら、こんな事が却って彼の未亡人に結婚を申し込む勇気を自分に与えてくれたからである。
―秋の月のある寒い晩だった。納屋につながれている猟犬がよく鳴いた。狩場の馴れない堅い寝床では自分は中々寝つかれなかった。暗いランプが兄と自分の並べた枕元に弱い陰気な光を投げていた。その内疲労から自分は不知(いつか)吸い込まれるように何か考えながら眠りに落ちて行った。自分はそれを夢と現の間で感じながら眠りに落ちて行った。そして未だ全く落ちきらない内に不図妙な声で自分は気がはっとした。眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも締められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を締めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い仲にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。―残忍な様子だ。残念な事をした。・・・・もう仕て了ったと思うと殆ど気違いのようになって益々烈しく締めてかかる、その自身の様子がはっきりと考えられるのである。
兄は吠えるようなうめきを続けている。自分はどうしていいか解らなかった。(新潮文庫『清兵衛と瓢箪・網走まで』 「クローディアスの日記」)

これに限らず、つきつめれば人間はすべて何かの罪は犯していて、それに気づくと人間は、当面追求されている犯していない罪に対して正面切って否定できない。どんな罪に問われても、見逃されていた他の罪の請求が来たのだと思ってあきらめる場合も多い。
古い名画「ロベレ将軍」の中に、ナチスにとらわれ死を宣告された市民の一人が「私は何もしなかったのに」と嘆くのに対して別の一人が「(ナチスの台頭や暴虐に対して)私も何もしなかった。だから今殺されるのだ」と答える場面がある。このような社会的責任、さらには動物を殺して食べ、害虫やガン細胞の命を奪っていることまでを考慮するなら、無実を主張できる人間などおそらく一人もいないだろう。その後ろめたさが覚えのない罪を認めてしまうことも、特に犯罪や裁判とは関係ない、日常の生活ではきっと多いはずだ。
「予期せぬぬれぎぬ」をはじめとした、さまざまなぬれぎぬについて考えることは、こうした自分の罪について考え、何をどこまで誰に対して責任をとるか明確にできるような基準を自分の中に作るということでもある。

責任のとり方について

それにしても人間はいったい、自分の仕事や役割について、どこまで責任をとればいいのだろうか。どこまで無実を主張できるものなのだろうか。
井上ひさし「頭痛肩こり樋口一葉」に登場する女性の幽霊は、自分と恋人を死なせた人にたたろうとしては、「その人にもそれなりの事情があった」ことを理解させられ身につまされ、誰も怨めないままについに中有に消えてしまう。不条理な苦しみを受けた怒りを、たとえ個人にではなく漠然とした社会にであれ体制にであれ向けられたならまだいいが、「誰も悪くなかった、誰も責められない」と納得するしかない状況がいかに救いがないものか。中井英夫のミステリ「虚無への供物」の登場人物の一人が述懐する次のことばにも、それと共通する絶望がある。

殺人か、それとも無意味な死か、どちらを選ぶかというのが氷沼家の問題さ。いいかい、君は聖母の園(老人ホーム)が放火だとすると、あまりに陰惨すぎるというけれども、それじゃ百人に近いお婆さんたちが、カイロ灰の不始末なんていう、無意味きわまりない事故で焼け死んで、おまけに、どこからともなく余分な死体がひとつ紛れこんだまま説明もつかないという現在の状態は陰惨じゃないのか。どちらが人間世界にふさわしい出来事かといえば、むしろ、どこかに凶悪な殺人者がいて、計画的な放火なり死体遺棄なりをしたと解釈したほうが、まだしも救われる。まだしもそのほうが人間世界の出来事といえるじゃないか。ぼくにはあの聖母の園の事件が殺人であり、放火であるほうが望ましい。望ましいというより、人間世界の名誉のために、犯罪だと断定したいぐらいだ。(講談社文庫『虚無への供物』 28「殺人問答」)

松本清張「霧の旗」のヒロインは、兄の死に責任があると考えた弁護士に対し徹底して復讐する。常識で考えても、弁護士にそこまで罰されるほどの落ち度があったとは思えない。

この弁護士は決して悪人ではない。桐子は兄が老婆殺しの犯人として獄死した原因を、大塚弁護士の拒絶にあるように思いこんでいる。しかしそれでは大塚がかわいそうだ。多忙な弁護士としては断るのが普通だろう。それを桐子のように思いこみ、徹底した復讐をくわだてるのは、やや異常すぎはしまいか―読者の中にはこう思う人があるいはいるかもしれない。それほどに桐子の行動はモノマニヤックである。
そのことは作者自身も文中でくりかえし述べている。むしろ読者がその異常さに気づくことを、あらかじめ計算に入れているようでさえある。大塚の場合のように、桐子にしつこくねばられたのではやりきれないことは事実だ。それを百も承知で、作者は桐子の行動を浮き彫りにしている。(新潮文庫 松本清張『霧の旗』 尾崎秀樹解説)

尾崎が指摘するように、そこには作者の「一般論に解消していくやりかたに最後まで抵抗」する桐子を通して、「社会一般の事なかれ主義、なれあい主義」への批判がある。桐子がもしも常識的に理性や良識を働かせたなら「頭痛肩こり樋口一葉」の気の毒な幽霊同様、死んだ兄も生きて行く彼女も、結局は泣き寝入りするしかなかったはずだ。そうならないために彼女は弁護士を当面の敵にし、無理は承知で犠牲にするしかなかった。「霧の旗」はヒロインの兄が無実の罪で収監され獄死してしまう「ぬれぎぬ」の話であると同時に、その弁護を断った弁護士がヒロインによって責任を追及される話でもあって、それもまた考えようによっては「ぬれぎぬ」と見えなくもない。だが、そのような幼くいちずな弱い者による怒りをまともに向けられるとき、とおりいっぺんの弁明は通用せず、それが「ぬれぎぬ」かどうかなどの細かい詮索は意味をなさない、という強い立場、責任ある立場、何らかの力を持つ立場にある人間すべてへの厳しい警告を「霧の旗」は読者に伝える。

援助者の存在

最後に、他の二つのぬれぎぬと異なって、「予期せぬぬれぎぬ」の話につきものなのは、ぬれぎぬを着せられた人物に対して、何らかの援助の手をさしのべる協力者の存在である。この点で先にあげた勘平とデズデモ―ナはともに孤独で、支えたりかばったり救ったりしてくれる援助者を持たない。その結果、勘平は他人に疑われる前から自分から罪を犯したと思いこんで、死ぬまでそれを訂正できないし、デズデモ―ナはその逆に自分が疑われていることさえも知らず知った時には死ぬしかなかった。
これは「予期せぬぬれぎぬ」の話としては、むしろ珍しい。かつての海外ドラマ「逃亡者」が毎回無実の罪を着せられて逃亡する主人公をかくまい助ける人々の人間模様をドラマの主軸にしていたように、身に覚えのない罪を着せられて苦しむ主人公を助ける人物の存在は、このような話では欠かせない重要な要素でさえある。「ベン・ハー」の場合、言わずと知れたキリストが護送される彼に水を与え、ローマの将軍がガレー船の苦役から彼を救出する。エドモン・ダンテスは獄中で出会った同じ囚人のファリア司祭が、安楽椅子探偵もどきに彼の逮捕時の話を聞いただけで、彼の陥れられたなりゆきと、その犯人とを正確に推理して彼にとるべき行動を教え、ついでに秘密の地図を与えて埋蔵された巨万の富を教え、これが得たことが脱獄後の彼の復讐の大きな武器となる。
他にも牢獄の看守、向こう岸へ渡してくれる船頭、行きずりの旅人など、司法や体制や常識やマスメディアとは異なる道徳と判断基準を持つ、あらゆる人々が彼らを時には決然と確信を持って、時にはおののきためらいながら、時にはそれとは気づかずに、その逃亡や潜伏を助ける。「水滸伝」で護送される豹子頭林沖を助ける花和尚魯知深や小旋風柴進など例をあげれば限りがない。「ぬれぎぬ」の場合に限らず、このように不遇な逆境にある人を救う協力者も、たとえば日本の軍記物では「平家物語」には警護の番人、「太平記」では船の船頭が多いように、時代や作品による特徴があるのだが、いずれにせよ、それは読者たちの、無実の主人公に共感し感情移入し、何とか救ってやりたいと思う気分の投影でもあるだろう。たとえば伊坂幸太郎「ゴールデンスランバー」などは、最後まで明らかにされることのない国家規模の巨大な勢力によってテロリストにしたてあげられた、平凡な青年の逃亡を昔の友人、職場の仲間、別の犯罪者などがそれぞれに助ける様子が作品の大きな部分をしめていて、そのような巨大な力に対する恐怖にもまして、それに対抗する抵抗運動の共同戦線の、2ちゃんねる風に言えば「祭り」めいた楽しさやにぎやかさが伝わって来るようでさえある。

(註)

  1. いわゆる「山崎街道二ツ玉の場」といわれる場面。「仮名手本忠臣蔵」は冒頭からしばらく、格調高い重々しい場面が続き、この勘平が身を寄せるおかるの実家でがらりと舞台は山中の風景に変わって観客を楽しませる。勘平は猟師の姿で蓑をまとい火縄銃を持って登場、その直前には彼が本来ねらって追っていた「山のように大きいいのしし」も登場する。特に人形芝居の浄瑠璃ではボール箱に目鼻がついたような単純なつくりなのに、あっという間に舞台を横切って消えるその印象は強烈で、たしかにいのししと把握できるのが立派である。
  2. この残忍な殺しを行う悪人斧(おの)定九郎は、演劇では仇討ちに参加しないでその失敗を企てる悪役の家老斧九郎兵衛の息子であることになっている。そして昔は黄八丈の格子縞のどてらのような衣装を着たひげもじゃの山賊だったのを、初代中村仲蔵が苦心の末の新趣向で、現在の色白で漆黒の衣装の凄みある姿にしたというのは、落語にも登場する、よく知られた話である。
  3. 新潮文庫の解説によると、作者がこの小説を書いたきっかけは、実際に見た日本の演劇「ハムレット」で、ハムレット役が魅力的でなく、クローディアスが堂々として立派だったので思いついたという、何だかいかにも志賀直哉らしい素直な反応である。

まとめ

「予期せぬぬれぎぬ」を描いた文学は時に煽情的で嗜虐的な快感を読者や観客に与えることもある。しかし、そのような感覚に身をまかせる危険を冒してでも、無実の人が運命に蹂躙されることもあるという事実に私たちは目をそらさず向き合うことが必要である。
また、多くの場合、このようなぬれぎぬをきせられる人は完全に潔白ではなく、一部分あるいは別の罪を犯していることがあり、それが冤罪に対して強く抗議できない原因になることも多い。過度な罪悪感にとらわれないよう、仕事や日常生活の上で、どこまでが自分の責任で、無実を主張できるかという点をふだんから整理して考えておくことも大切である。
この「予期せぬぬれぎぬ」の場合、被害者に対して逃亡や脱獄などを援助する人物が登場するのも他の二つのぬれぎぬにない特徴である。

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