ぬれぎぬと文学(未定稿)8-第四章 「情けあるおのこ」たち(2)
通りかかる援助者
これらの例では、おおむね逃亡する無実の罪人や正義の味方が、途中の住人に助けられるのだが、中にはそれが逆転して通りすがりの旅人が、何らかの危機的状況にある村や町の住人を救おうとする場合もある。
ワイルドの童話「幸福の王子」に登場するツバメや、リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」に登場するキハールなども、言ってみれば定住者から協力を求められる旅行者である。彼らについては次章で述べよう。
時代と場所を問わず、このような場合の旅人は多くの場合アウトローの一匹狼で、自分の身ひとつ以外に守るものを持たない身軽さが一番の強みとなっている。定住者の依頼に応えることは、その生き方も自分自身も危険にさらすことでしかない。上記のツバメもそうだが、しばしば彼らはそのことで、とりかえしのつかないほどの大きな犠牲を払う。それは時には助けを求めた人たちにさえ気づかれることがない。たとえば映画でも有名な「シェーン」では、西部の開拓地のつましい家族を助けようと無頼のガンマンに立ち向かって倒した主人公の流れ者シェーンは、おそらくその決闘で致命傷となる負傷をしていて、町を出ていった後、間もなく一人で死ぬのであろうことが、そのラストでは暗示されている。
シェーンは自分と彼との間の空間をじっとみていたが、ピストルをサックに戻したときは、ほかのことはすべて忘れ去ってしまったようだった。
「おれは彼にも機会をあたえてやった」と。シェーンは深い悲しみの底からいうようにつぶやいた。しかし、その言葉はぼくにとっては意味がなかった。なぜなら、彼のバンドの止めがねの少し横上のあたり焦げ茶のシャツの上に、もっと濃いところがしだいに滲み拡がるのが見えたからだ。(新潮文庫 ジャック・シェーファー『シェーン』)
彼はぼくの方へかがみこみ、頭へ手をかけようとした。しかし、鞭でうたれたように痛みが襲って、その手をひっこめバンドのあたりのシャツをしっかり押さえた。鞍の上でからだがゆれた。
ぼくは耐えられないほど心配になった。ぼくは彼を見つめ子供ではどうしようもないことだったから、眼をそらして固く温い馬の横腹に顔を隠した。(同上)
そして、そのような関わりをいっさい持たず、助けを求められても応じないで生きようとするのが笹沢左保『木枯らし紋次郎』シリーズの主人公上州無宿の紋次郎で、彼が何かの理由でつい人助けをしようとすると、あらわになった真実からかえって人間の醜さが明らかになってしまうのも、このシリーズの特徴である。時代小説、股旅物のスタイルをとりながら、このシリーズが一貫して追求するのは、他人と深く関わらないで生きる距離の取り方という非常に現代的なテーマである。
「折角ではござんすが、お断わりいたしやす」
紋次郎は、冷ややかに言った。それがお信という娘の打ち明け話に対する門次郎の、最初の言葉だったのである。
「そんな・・・・!」
お信という娘は、茫然となって絶句した。
「あっしは見た通り、ただひとり道中を重ねている流れ者で・・・・。海野のお貸元とそのお身内を敵に回すような無茶な真似は、とてもできるもんじゃあござんせん」
紋次郎は表情のない顔を、お信という娘に向けた。
「そんな薄情なことを、言わないで下さい! このままでは間もなく、武右衛門親分の子分衆に・・・・」
お信という娘は乗り出して、紋次郎の膝に手をかけた。
「それにあっしは、他人(ひと)さまに手を貸せるような結構な身分じゃあねえんでござんすよ」
紋次郎はお信を拒むように腰を上げた。
「お願いです! どんなことでも、お礼はしますから・・・・」
振り払われたお信は、床へのめり込んだ。
「どうやらここには、居辛くなったようで・・・・」
紋次郎は長脇差を腰に押し込むと、三度笠を拾って立ち上がった。(光文社時代小説文庫 笹沢左保『木枯らし紋次郎』下 「唄を数えた鳴神峠」)
とらえられてしまったら
この章の最初に述べたように、「平家物語」の「情けあるおのこ」たちは逃亡途中の援助ではなく、とらえられた後の人々にさまざまな恩情をかける。そのような場面は多様で充実していて、たとえば平家への謀反を企てて捕えられた藤原成親を、平清盛が「とってふせて、おめかせよ」と拷問めいた暴行を命じるのに対し、そのような処遇を好まないであろう清盛の長男平重盛の意向を配慮して、警護者である難波経遠、妹尾兼康の二名が成親に「いかさまにも御声の出づべう候(何でもいいから、それらしくうめいて下さい)」と耳打ちして、命令どおりにひきすえるという、複雑な関係の場面を生んだりもする。
これらの場面のすべてにおいて、囚人の望みを許可してやる番人たちに葛藤のようなものはほとんどない。たまには冷たい対応をしているかなと推察できる部分もあるが、「平家物語」はそういう場面も「あづかりの武士難波次郎経遠、かなうまじき由しきりに申せば、力及ばで『さらば上れ』とこそ、の給ひけれ」(「大納言死去」)と、あっさりと描き、強調しない。
そして大半の場合、警護の武士たちは、囚人のさまざまな嘆きや家族との情愛にふれると「守護の武士共も皆、鎧の袖をぞぬらしける」(巻二「大納言流罪」)、「たけきもののふ共も、みな袖をぞぬらしける」(同上)、「たけき物のふどもも、みな涙をぞながしける」(巻十一「一門大路渡」)、「守護の武士共もみな袖をぞ、しぼりける」(巻十一「副将被斬」)などと、はばかる様子もなく皆そろってよろいの袖を涙でぐちゃぐちゃにして泣いている。だから、囚人から「家族に会いたい」「昔つきあった女性に会いたい」などと言われると、たちまち「武士ども、さすが岩木ならねば、おのおの涙をながしつつ、『なにかは、くるしう候べき(何の問題があるでしょうか)』とて、ゆるしたてまつる)(巻十一「重衡被斬」)、「実平なさけあるおのこにて、『まことに女房などの御事にてわたらせ給はんは、なじかは、くるしう候べき』とて、ゆるしたてまつる」(巻十「内裏女房」)などと認めてしまう。
「平家物語」は全体に敗者を思いやり、その悲惨さを徹底して描かない優しさもしくは甘さがある。このような描写もそのような姿勢に基づくものかもしれない。また、当時のことを語り伝えた人々の中には自分が番人としての立場にいた人も少なくなかっただろうから、ある程度の脚色や美化が行なわれている可能性もある。
だが、このような描写が虚構にすぎると否定されず、好まれて残されたということも含めて考察すると、そこには逃走途中の援助者に共通する、無頓着なまでの相手への同情がある。滅ぼされるのが当然の敵に対する憎しみが奇妙なほどにないのと同様、いやもうそこまで同情するのならいっそ逃がしてしまったらどうかという徹底した問いかけもない。おそらくそんな選択の可能性は、彼らの中にまったく存在していない。
前に述べた、善意の人々が無実の罪人や不遇な逃亡者に手を貸す驚くほどの無造作さと、これらの番人たちが囚人にそれだけ同情して便宜をはかってやりながらも逃がそうとか救おうとかいう選択肢はまったくないままに、その人たちの束縛と処刑に手を貸す無造作さとは、まるっきり反対のようで、どこかでつながっているようにさえ見えてくる。
その、前にあげた例の中で、特に「木曜だった男」の宿の主人やルナール博士などは、逃亡中の人々の目的や事情にはあまり関心がなく、むしろ友人として人間として援助を行なっている風がある。現実にもそのような人々は多かったろう。だが、そのような情報や状況や考察とは関係ない、人間の心情に基づく対応は、美しく大胆な行為を生むと同様に、状況が異なれば「平家物語」の番人たちのように、大きな自然の流れには決して抵抗することはないという限界もある。
「木曜だった男」の、宿の主人やルナール博士がその後さらりと敵に回る(ように見える)恐ろしい事態も、あるいはそれを象徴しているのかもしれない。
牢獄での攻防
「平家物語」の番人や護衛の人々が囚人に優しいのは、自分たちの立場や守っている秩序への信頼と無関係ではないだろう。また、相手の囚人が敗者としての立場を守り、だいたいにおいて戦いを停止していることも、番人側が余裕を持てる理由だろう。(註4)だが、「怒りのぬれぎぬ」の章で述べたように、とらえられてなお罪を認めず戦いを放棄せず、自らの信念を貫く人々が囚人の場合、そこにはより厳しい対立が生まれる。特に囚人の精神が強靭で崇高でさえあった場合、心理的な攻防も含めて番人たちの中にはは動揺や迷い、囚人への共感が生まれ、彼らの方が影響され洗脳されて行く。映画「善き人のためのソナタ」や「マンデラの名もなき看守」などもそうだが、小林多喜二の小説「一九二八・三・十五」では、下積みの巡査たちが激しい拷問を受けている思想犯の囚人たちに、自分たちの労働条件に関して愚痴をこぼす場面がある。
沢山の労働者が次から次へと、現場着のまま連れられてきた。毎日―打ッ続けに十日も二十日も、その大検挙が続いた。非番の巡査は例外なしに一日五十銭で狩り出された。そして朝から真夜中まで、身体がコンニャクのようになるほど馳けずり廻された。過労のために、巡査は附添の方に廻ると、すぐ居眠りをした。そしてまた自分たちが検挙してきた者たちに向ってさえ、巡査の生活の苦しさを洩らした。彼らのよって拷問をされたり、また如何に彼らが反動的なものであるかという事を色々な機会にハッキリ知らされている者らにとって、そういう巡査を見せつけられることは「意外」な事だった。(略)
「もう、どうでもいいから、とにかく決ってくれればいいと思うよ」頭の毛の薄い巡査が、青いトゲトゲした顔をして竜吉にいった。「ねえ、君、これで子供の顔を二十日も―ええ、二十日だよ―二十日も見ないんだから、冗談じゃないよ」
「いや、本当に恐縮ですな」
「非番に出ると―いや、引張り出されると、五十銭だ。それじゃ昼と晩飯で無くなって、結局ただで働かされてる事になるんだ、―実際は飯代に足りないんだよ、人を馬鹿にしている」
「ねえ、水戸部さん(竜吉は名を知っていた)貴方にこんな事をいうのはどうか、と思うんですが、僕らのやっていることっていうのは、つまり皆んなそこから来ているんですよ」
水戸部巡査は急に声をひそめた。「そこだよ。俺たちだって、本当のところ君らのやってる事がどんな事かぐらいは、実はちアんと分ってるんだが・・・・・」
竜吉は笑談のように、「その『が』が要らないんだがなあ」
「うん」巡査はしばらく考え込むように、じっとしていた。(岩波文庫 小林多喜二『蟹工船 一九二八・三・一五』 「一九二八・三・一五」)
救ってやろうと思うのに!
更に看守や警吏といった程度の役職でなく、もっと大きな権力を持っていて、囚人の処遇にある程度の決定権を持っている人たち、たとえば裁判官などの場合には、特に相手を無実と感じていたとしたら、その葛藤はより深刻なものとなる。
前にあげた「ジーザス・クライスト・スーパースター」でイエスを裁くローマの総督ピラトは、イエスを救いたいと思っており、さまざまな努力をする。それが空しく終わってイエスを処刑する命令を下さなくてはならなくなった時、彼はイエスを死刑にしたがる民衆と、自分の救いを受け入れないイエスとの双方に激しい怒りを爆発させる。
ピラトがイエスの死刑に消極的で民衆を説得しようと試みたことは、新約聖書の福音書にも明記されている。(ただし、これももしかしたら後にキリスト教が広まる中でローマの立場を美化するために強調されている可能性もある。)しかし、「ジーザス・クライスト・スーパースター」はイエスを一種の革命家として描いているから、ピラトのこの説得といらだちは、信念を持って戦う人に妥協を求めて拒否される支配者側の偽善として描かれている要素も強い。これもまた、不当に虐げられ、それに対して抗議して罪を得た人を何とか救おうとする人が、自分では善意と好意にあふれて必死で相手を救おうとした結果、それだけはゆずれないと相手が思っていることを妥協して認めるように要求し、それが容れられないと裏切られたと感じて、「自分の責任ではない、あんたのせいだ」と相手をつきはなすことで自分の罪悪感を軽くしようとする、文学でも現実でもよくある図式だ。たとえば次のような例もそれにつながって行く可能性があるだろう。
そのKさんが、数年前のある日、上司から初めてドイツの見本市へ海外出張を命じられて、大いに困惑した。「朝鮮籍」である自分には、それは、不可能でないにせよ、ひどく面倒なことだと知っていたからだ。
もじもじしていると、出張命令をいやがっているものと上司は誤解しかねない。だが、「朝鮮籍」という立場の複雑さを説明したとしても、それを理解してくれるだろうか。ひょっとすると上司は、「それじゃ国籍を変えろ」などと言うのではなかろうか。しかも、まったくの善意から。(岩波新書 徐京植『ディアスポラ紀行 ―追放された者のまなざし― 』 「プロローグ」)
このように、なまじ相手を救う力を中途半端に持っていて、それを利用して相手の便宜をはかってやろうと懸命に努力する援助者は、下手をすると最大に相手を苦しめる敵になりかねない。
彼らは、「ぬれぎぬ」をきて苦しめられている相手が無実であることを知っている。だから無実の人を苦しめて罰するという過ちをおかす側に、なりたくないと願っている。かと言って、自分の立場を危うくするほどの犠牲を払う気にはなれない。それで、自分なりに努力して、限界ぎりぎり、最大級の譲歩と提案をして相手を救い自分も救われようとするのだが、相手がそれを拒絶して、その提案が失敗すると、相手が自分を悪人にしようとしているような気分になって、自分が被害者のように傷ついて相手を激しく責めるのだ。
「あなたがそんな目にあうのは、私のせいではない。私の救いをあなたが拒否したからだ。あなたの苦しみはあなたが選んだ道で自業自得だ」という理屈で彼らは必死に自分が救われようとする。その結果、彼らは誰よりも残酷かつ強硬に相手に「自己責任」というぬれぎぬをきせようとすることになってしまう。そもそも、せまってはいけない選択を相手にせまって、相手の苦しみのすべてが本人の希望であるかのように自分や周囲に、どうかすると相手本人にまで思いこませてしまおうとする。
杉浦民平「渡辺崋山」の取調官たちは、まだそれほどに追いつめられていないので、心境が深刻でなく余裕がある分親切に、崋山を救おうと努力する。この小説では崋山の方がおそらくその後の展開を予測して、彼を追いつめそのような醜い姿をさらさせるのを恐れてか、妥協して自らの罪を認めてしまうのが、読んでいて何とも歯がゆい。対照的に五味川純平「人間の条件」の第一部では、中国人捕虜の労働者たちに必死で便宜をはかってやるヒューマニストの梶が、捕虜の一人王享立によって、自分のその善意の限界を思い知らされ、絵に描いたような展開で追いつめられて行き、結局自分も上司と軍部に抵抗して投獄され戦線に追いやられる。
憎悪でも絶望でもなく
王享立がそうやって梶の偽善をあらわにして行く過程は、小林正樹の同名の映画では、宮口精二の王享立と仲代達矢の梶による迫真の演技でおそらく小説にまさる説得力を持って描かれている。このような場合に、敵の中にいる善意の理解者に対して、無実の犠牲者である囚人が冷たい鋼鉄のような憎悪で自分を防衛するのではなく、かと言って人間らしく暖かい優しい弱さで相手への同情に溺れてしまうこともなく、冷静に対応し戦いを続けるのがどんなに困難なことかは想像するに余りある。
私自身、若い頃から仕事や生活の場でさまざまな女性差別に直面したとき、それを男性に抗議し訴えたことはほとんどなかったのだが、それは無視されたり揶揄されたりして相手を憎むことを恐れたというより、ひょっと相手が私の言うことを深く理解し共感し、ともに戦ってくれでもしたら、どれだけの犠牲を相手に払わせることになるかが怖かったからだ。それをわかってくれそうな男性を愛して大事にしたいからこそ、きっと私以上に危険で苦しいものになるその戦いに、ひきずりこみたくはなかった。まだしも男性全体を憎んでいる方が楽だった。
私は三十代も後半になってから、初めて別に恋人でもない若い男性にたまたまはずみのようにして、そのことを告げたのだが、それは私がその男性や男性全体や自分自身の強さというものを、かなり信じられるようになったからだったろう。だが私にもその男性にも衝撃だったのは、これまた、たまたまそこに同席していた私たちのどちらともほとんど初対面だった聡明で美しい女性が、私が「女性への差別に傷ついてきたし、それに気づこうともしない男性全部を憎んでいる。でもそれは男性に絶望したくなかったからだ。絶望だけはしたくなかったから、憎むしかなかったのだ」と言ったとき、それに続けてひとりごとのようにひっそりと、「私は憎みたくなかったから絶望した・・・」とつぶやいたことだった。
男と女に限らない。何らかの点で自分がひどく不当に扱われていると感じている人間は、そのことに気づかないでいる相手や周囲に、ともすれば憎悪か絶望しか持てないし、それすら相手に告げられないで自分の中に抱えこむ。特に敵の中の最大の援助者や理解者は、ひとつまちがえばこちらの愛も利用される最大の敵になりかねないから、なおさらだ。
だからこそ私は、逃亡事件を捏造されて七名の捕虜が斬罪されることになった日、あらゆる手段でくいとめようとして失敗した梶に、鉄条網越しに王享立がかける容赦ないことばの数々を、ほとんど息をのんで聞いた。シネマスコープの長い白っぽい画面全体を斜めに横切る鉄条網の向こうから梶を、私を見つめていた王享立の白い衣装とまなざしを今でも忘れることができない。どれだけの強くゆるぎない人間への愛と信頼がそこには存在したのだろう。
「これは我々だけの問題ではない」
と、王は、梶の視線が戻って来るのを待って、云った。
「七人の仲間が生死の境目に立っているのと全く同じ意味合いで、梶さん自身が重大な岐路に立っているのではないだろうか?」
「その通りだ」
「この瞬間にあんたが失敗すれば、誰もあんたを人間として信用しなくなる。あんた自身が自分を信用出来なくなる」
「・・・・その通りだ」
「わかっていて、何もしないのか? 書類上の手続と電話の連絡だけ。友人がやっている努力の結果を待つ。それだけ。やることはそれだけしかないだろうか?」
「どうやれというのだ?」
「鉄条網の外を自由に歩いている人がそれを訊くのか?」
「・・・・ゆうべ、俺は英雄になるところだった」
と、梶は、にが笑いをこぼした。
「どたん場になっていい智慧も浮ばない。だから、俺はあの七人を逃がそうとしたんだ・・・・」
梶の表情は、急に、挑みかかるような捨鉢なものになった。
「その英雄の末路がどうだったか、知りたくないか?」
王は梶から視線をそらして、いままで梶が見ていた朝焼けの方へ送った。
「英雄は女の涙に溺れたよ。溺れた体を、女の髪の毛一本が寝床に繋ぎ留めた。何故嗤わない?」
「あんたがそうやって自分自身を蔑んで快感を味わっていることよりも、七人にさし迫っている危険の方が重大だからだ」
と、王の声は冷たかった。
「労務の従業員は約四十名いると聞いた。みんなが殺人鬼ばかりではないだろう。その四十名を一つの意志に纏めて、処刑反対の立場を鮮明にすれば、あんたが一人で行動するよりも効果的だとは思わないか? その運動を正当化する理由は幾らでもついた筈だし、それをする時間はそう多くは要らなかった筈だ」
梶は灰色に曇った顔を、今度は本館事務所の方へ向けた。
「所長は俺によく云ったものだ。君はいつも正しいことを云う、だがいつも平面的だ、とね。俺は、王、お前の意見を平面的だとは思わない。正しいよ! 正しいが、俺はお前のような優れたオルグではなかったのだ。お前は抗日戦線の戦士だ。俺は日帝侵略戦争の提灯持ちだ。俺が、お前の好みに合うように行動していたとすれば、この山に梶などという男はとっくにいなくなっている」
「あんたは窮地に立ちながら、自虐趣味を弄して現実を直視しない。そうやって自分の日和見主義をごまかそうとする。そのくせ、他の日本人との違いを絶えず意識して、誇りを持ちたがる」
「・・・・それで?」
と梶は、息をつめ、眼を暗く光らせた。
「私はこの山に来たとき、日本人であることをあまり喜んでいない日本人が一人いることに気がついた。その人は、他の日本人と同じように我々に対して、口ではきびしいことを云うが、心と行動はその反対へ向いていた。私は、これは、珍重すべきことだと思った」
王は梶をヒタと見据えた。
「私の評価は誤っていただろうか?」
梶は殆ど全力を傾けて王の正視に応えた。
「誤っていたらしいな」
「そう、誤っていたらしい」
王の澄みきった視線は全然動かなかった。
「梶さん、小さな過失や誤謬は、あんたも犯すだろうし、私も犯す。だが、これは訂正すれば許される。けれども、決定的な瞬間に犯す誤謬は、決して許されることのない犯罪になる。梶さんは、私の見るところ、人間を擁護する立場を取りながら、戦争を擁護する職業に悩み続けていたようだ。これは、誤謬と過失の長い連続だった・・・・」
梶は小さく幾つかうなずいた。
「けれども、これには、いつか訂正する機会があるだろうという希望が持てたでしょう。今日、これから来る瞬間には、その希望はない」
「それで?」
と、梶は、殆ど口の中で反問した。
「云うまでもなく、その瞬間が、人道主義の仮面をかぶった殺人狂の仲間になるか、人間という美しい名に値するかの分れ道です」
「わかっている」
梶は、いままで一人きりで佇んでいたかのように歩き出した。
多分、俺はその美しい名に値しないのだ。
王は梶を追わなかった。静かな声だけが梶の後ろから来た。
「梶さんは暴力の支配の下では、人間は孤立化し、無力化するという敗北感に陥ちいっているのです。それも、あんた自身で考えているよりも、ずっと深い程度に」
梶は立ち停って、ふり返った。
「そして梶さんは、自分で思っているほどには、人間を信じていない。あんたがどう考えようと、人間には人間の仲間が、いつでも、必ず、何処かにいるものです。互に発見し合って、手を握り合えばいいのです。非常に文学的な云い方だが、この世界は、決して殺人狂の世界にはなりません」
梶はまた歩き出した。
王、俺は見たいよ、お前が俺の立場に立っていたら、どうするかを。
枯れた草むらから道へ出たときに、梶は鉄条網の方をふり返った。王亨立は同じ場所に立って、梶の方を見つめていた。(河出書房日本文学全集 五味川純平『人間の條件』上 第二部36)
≪まとめ≫
ぬれぎぬをきせられた人に助けを求められて、ある程度は援助しても、その犠牲が大きすぎると、援助者の生活もまた破壊されかねないのだが、文学が描き出した援助者の多くは、あまり深刻に考えず自然に援助を行なっている場合が多い。しかし、時代が下るにつれて、それらの援助者の背景や運命や決意した動機に注目する作品が増えてくる傾向がある。また、比較的大きな力を持つ援助者の場合、何とか相手を救おうとして妥協案を提案し、それが拒否されると自分が無実の人を苦しめる側にいるという自覚がある分、かえって自分の方が犠牲者であるかのような意識に陥って、最も危険な敵になることもあり得る。このような中途半端な援助者に対しては、援助を求める側も愛と信頼を失わず勇気を持って対処しなければならない。
(註)
- 詳しくは『江戸の女、いまの女』(板坂 弦書房)の「情けあるおのこ」の章、および「雅俗」十一号の板坂のエッセイ「軍記物から江戸時代へ」を参照されたい。
- この冒頭は「無実の人を救う未知の他人」の描写としては完璧なほどすべての要素がそろっている典型的な場面だが、シラーの他の戯曲「群盗」や「たくみと恋」などでは本来の「逃亡する主役を救う脇役」も含めて、この種の設定はいっさい登場しておらず、作者が特にこのような人物像や場面設定を好んでいたというわけではない。
- 「古事記」にはこのような「情けあるおのこ」の例はほとんどないが、目弱王をかばって滅びる人物も、その理由は「憐れみ」というべきもので、政治的判断などではない。実際にはそれがあったとしても、そのようには描かれていない。
- たとえば重衡などは、鎌倉で頼朝に罪を問われたときには「敗者であっても罪人ではない」という姿勢で堂々と反論しており、罪を認めた敗者ではない。板坂『平家物語』(中公新書)を参照されたい。